2009年11月 2日 (月)

ズ45 ズッコケ情報公開マル秘ファイル

Back45 第45巻。02年7月刊です。

三人組が行政オンブズマンになるお話。
前巻のところで「社会派フィクションにおいて政治=悪ネタは衰退しつつあるように見える」と書きましたが、この巻はなんと「政治=悪」ネタです。しかも性質の悪い部類のものです。

はじまりは、勧善懲悪時代劇。「ひょっとこ侍」が腐敗した筆頭家老を成敗するのを観て、ハチベエとモーちゃんが感激します。ぜひ自分たちも悪党をやっつけたい、政治家の不祥事を根絶したいと言い出し、ハカセがオンブズマンというのを提案するのです。現代のひょっとこ侍とは、オンブズマンなんだそうです。
で、さっそく三人組の活動が始まるのですが、読者の中にはオンブズマンというのがどういうものか知らない子もいることでしょう。そこで、ハカセを通して何度か解説が挿入されます。オンブズマンの役割や仕組、公務員というのは何でも秘密にしたがる習性があること、市民の権利、今は「情報公開の時代」であること……社会科副読本を一言余計にしたような解説です。
三人がターゲットにするのは、ミドリ市に建設予定のふれあいセンターをめぐる疑惑。建設業者の入札に際し予定価格が事前に漏れたのではないかという黒い噂です。(ここでもまた、競争入札の仕組やら典型的な談合の手口の解説……)。
こうして調査と糾明のストーリーが展開していくのですが、全編「悪い奴」の影とお勉強になっちゃう雰囲気でいっぱい。最初にハチベエの頭の中でひょっとこ侍と政治家が短絡するあたりで嫌な予感がしたのですが、ズッコケらしくないお話なのです。

現実の社会問題を扱うフィクションには何らかの啓発志向とそこから来る退屈さが不可避なのでしょう。現実の問題が登場することで完全な虚構よりも退屈さが減ずると考える人もいるようですが、僕はまったくそうは思いません。啓発啓蒙志向に作り笑いが加わる子供向けのものだとなおさらです。
たしかにこのお話は、あるオンブズマンが市役所の帰りに轢き逃げで殺されるなど、不正の隠蔽をめぐるサスペンスの要素も入っているのですが、それでもどこかズッコケらしくありません。創作術の問題ではなく、作者その人に、どうしたことか退屈を避けようとする善意が感じられないのです。「現代の社会問題一覧」にも読めてしまう『吉里吉里人』を書いた戯作者よりも感じられません。大人の世界によくあるような、ムツカシそうな振りと刺激を交換してしまう貧しさは、もともと反ズッコケ的であるはずなのに。

それに、社会に生きる個人としてはともかく、ズッコケ読者としての僕には、行政の腐敗にも市民の権利にもまったく関心がありませんし、そもそも僕は「社会問題にまつわる話」が好きではないのです。社会問題そのものというより、何かの問題「化」、つまり「これは深刻な問題なのだから話が退屈だろうがかまわないのだ」という態度の生成が苦手です。
その昔、さるニュースキャスターの持ち芸に、時事報道と商業宣伝の間の数秒に大きく溜息をついて見せてから「コマーシャル」と一言かますという芸がありましたが(今も二代目氏が継承しているのか知りません)、ああいうのを許容する環境をあっさり成立させるから嫌いです。ハチベエをオンブズマンにさせたのも、そのハチベエに問題の構図をなぞるように行動させているのも、それをズッコケとして「あり」にさせたのも、同じ力作用だと思います。

お話は、不正の全容がほぼ解明されたところで終ります。隠蔽目的の殺人や恐喝の実行犯は逮捕。贈収賄関係についても証拠をもとに検察が動きはじめて…というところまでです。市長、役場職員、土建会社、産廃業者、暴力団、醜聞恐喝専門のゴロツキと、「ありがちな悪い奴」オールスター出演。再開発計画も頓挫し、まあ、めでたしと相成りました。

しかしまあ、どういうのでしょう。「政治家」といえば「土建屋」「癒着」で、「役所職員」といえば「放漫経理」「カラ出張」という連想、それが現実にどれほど合致しているかは知りません。ただ、そういう観念はズッコケワールドに馴染まないと思うのです。15巻と同じ人の作としては残念です。
読者だった小学生はいずれ大人になります。
将来この日本に、ニュースキャスターの芝居がかった溜息を見た瞬間にズッコケを思い浮かべてしまう人が出てくるかもしれないのです。いいのかそれで。いやよくない。人情噺を聞くと反射的に「政治家にも聞かせてやりたい」などと言う大人が増えていいのか。いやよくない。
まさか本当にズッコケは変わってしまったのかと嘆いた人も多かったはずです。
以後の巻のタイトルを見てみました。「地底王国」「魔の異郷」「幽霊の正体」「愛のプレゼント」「涙の卒業式」……迷走は今回だけのようです。安心していいでしょう。さすがに最終巻の卒業式がイデオロギー対立で破壊される涙ではないはず。たぶん。

というわけで、僕にはあまり魅力を見出せない巻でした。
小学生諸君にもあまり薦められない巻なのですが、宿題やら課題感想文のためにどうしても読まなくてはならないなら、ぜひチャレンジしてもらいたいことがあります。あるいは保護者から見て、その子が将来性に関わる大事な読解力を備えているか判断できるポイントとも言えるものです。
それは、ここで描かれている行政の腐敗や裏社会を、現実の問題を映したものだとはまったく気づかず、ただの舞台設定であり単なる虚構の味付けだと受けとって読んだかどうか。わざわざ退屈を招き寄せるような読み方をしなかったかどうかということです。社会問題などどこ吹く風よと、怪盗Xと同じ水準で悪徳市長を楽しむ姿勢。つまり、退屈への鈍感ではなく、深刻さへの鈍感が期待されるべきだということです。退屈を察知し避ける能力とも言えます。読後に市役所観や行政理解がまったく変化しなかった子がいるとすれば、かなり有用な愚鈍さを備えているということ。未来を背負う少年として頼もしいかぎりです。

……「いや、ちょっと待て」という声が聞こえてきました。成人して社会に出て生活を立てていくには、むしろ退屈への鈍感さが要求されるのではないか、と聞こえてきます。勤め人などは特にそうだ。与えられたものを深刻に受けとり退屈など感じないことが必須のはずだ、退屈を忌避して夢想に遊んでる奴が何の役に立つのか、と。

……ごもっとも。おっしゃる通り。

しかし。
だがしかし。

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2009年10月22日 (木)

ズ44 ズッコケ怪盗X最後の戦い

Back44第44巻。01年12月刊です。

怪盗X(えっくす)シリーズの第3弾。完結編です。
第2弾の38巻で、「怪盗Xは倒産した会社の元同僚たちで構成されるグループなのではないか」という伏線が張られていたことや、三人組をさしおいて怪盗Xのキャラクターが独り歩きしはじめた雰囲気から、Xが「義賊」的な描かれ方に変っていくことくらいは、勘のいい子なら予想していたことでしょう。そういう場合、義賊の標的になるのはなんらかの社会悪、つまり高利貸しとか人買いとか博奕の胴元であり、本来対決するはずだった元々の正義(ここでは三人組と警察)は前線から退き、盗みの手口を解明し犯行動機を忖度して読者に解説する役割にまわるのが通例です。

と、そう予想しながら開いた一頁目でいきなりXの犯行。狙われたのは、政権与党の有力派閥の領袖です。この議員の隠し金庫から党内クーデタの血判書と工作資金1億円を盗み出したのです。Xはさらにその血判書を、クーデタ派に狙われていた総理大臣に1億で買い取らせる始末。本当に総理大臣が直接Xと取引するのです。いきなりでかいスケールできました。確かに政治権力というのは、社会派の物語で悪役にされる定番ではありますが、まさか小学生の読み物にまで登場するとは思いませんでした。
こうしていきなり首相官邸にまで侵出したXですが、このくだりはただのプロローグ扱いなのです。
では時の政権を露払いに押しやるほど大規模な社会悪とは何だろうか、そんなに巨大な高利貸しが日本にあったろうかと考えながら読み進めると、次のターゲットとして新興宗教教団が登場しました。真未来教。
Xはミドリ市にあるこの教団のご神体「金のわらじ」を頂戴する旨、ハチベエを通して予告してきたのです。しかし、この犯行は未遂に終ります。Xのギブアップ宣言。三人組や警察の警備ではなく、教祖の超能力によるガードが奏功したわけです。無念なりX……。
と思いきや。
なんと、このくだりもまた、プロローグなのです。頁数からいえばもう半分をすぎていますが、本筋はこれから。
じつは、この「金のわらじ略奪未遂事件」は教団による自作自演だったのです。教団が教祖とわらじの神通力を宣伝するために、Xの名を使っただけでした。
そこで、怒ったXが本当に教団に対し予告状を送ってきます。金のわらじはもちろん、教祖の虚飾への挑戦でもあります。嘘から出た実ってやつで、つまりここからやっと「怪盗X VS. 対胡散臭い宗教組織」というお話が始まるのです。やはり怪盗Xの懲悪譚という様相が濃くなってきました。はたしてXの犯行は成功するのか、教団の運命やいかに、というのが焦点になります。

ネタバレを避けると、ここまでしか書けません。対決の結果もXの正体もお楽しみ。

で、ここまでで思ったこと。
これまで政治機関が悪役を担っていたような社会派フィクションにおいて、宗教組織がその悪役の座を凌駕する勢いにあるようだということ。多くの想像力の方向がそう変っているのではないかと、今さら感じました。あくまでフィクションの中の話であって、現実の政治家や宗教家がどうなのかは関係ないし興味もありませんが、もう「弱者を誑かしながら甘い汁を吸う特権的少数者」といえば、政治権力者より宗教組織幹部の方が印象としてしっくりくる人が増えてきたようです。さらに先日、かの巨大保守政党が衰退したことで、この流れはもう決定的になったのでしょう。
はたしてこの新定番悪玉=宗教が政治並みの悪を演じられるのでしょうか。読後や鑑賞後に「これで世の中の仕組と本当に悪い奴らの生態がわかったぞぉ」と錯覚させ、庶民の鼻を膨らませるような力を持つまでになるのでしょうか。やや心もとない気もします。そりゃ、役者の人相とルールによって善悪が左右される経済金融モノよりマシでしょうが。

……とまあ、こんなことをつらつら考え、ふと、理想の内閣、世界に誇れる日本政府を思いおこしてみました。佐分利信首相、岸田森官房長官、東野英治郎法務大臣…蔵相殿山泰司、外相高松英郎、小池朝雄、名古屋章、小松方正……松山英太郎厚生政務次官まで。……日本は本当に大切なものを失い続けてきたようです。

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2009年9月23日 (水)

ズ43 ズッコケ芸能界情報

Back43 第43巻。01年7月刊です。

芸能界のお話。
小学生の図書で芸能界。ズッコケのくせに芸能界。
不似合いな気もしますが、刊行当時は芸能界と小学生界の接近が目につく御時勢だった記憶があります。
ろくに関心もなかったのですが、子供といえる年齢ながらお遊戯らしさを廃した踊りと歌唱で衆目を集めた女子グループがいたような…。沖縄に生まれて小学生の頃からレッスンを受けないとスターにはなれないという信仰の興隆があったような……。いずれにしろ、これまでで最も女子読者の多い巻かもしれません。

お話は、ミドリ市で芸能人志望者のオーディションが開催されるところから始まります。
業界大手の山プロが主催し全国をまわる新人発掘オーディションです。多くの人がすぐにモデルを推定できるでしょう。あの全国オーディションに、モーちゃんの姉で高校一年生のタエ子さんが応募したのです。モーちゃんのお姉さんだけあって、モーちゃんらしい体格の彼女ですが、歌手でもバラエティタレント部門でもなく、女優部門にチャレンジしました。夢をみる自由。いい度胸をしたタエ子さんですが、さすがに不安になったらしく、この地方予選会場には三人組を付き添わせてやって来ています。
で、この冒頭の場面ですが、大手プロのスカウト旅団という伝統的なスタイルにくわえ、この「付き添い」という語が、御時勢にそぐわぬ古風な感を醸しています。おそらく小学生読者にはわからないでしょうが、八十年代のアイドル生誕秘話には「付き添い」が付きものだったのです。「オーディションを受ける友達の付き添いで何の気なく応募したところ自分が選ばれてしまって」だの「一人で応募するのが不安だった友達がかってに私の写真まで一緒に送ったところ…」だの「友達につきあって原宿を歩いていたら…」というのが定番でした。真偽はともかく、アイドルというのはなろうと思ってなるものではなく、なろうと思ってる人の隣にいる、なろうと思ってない人がなるものだったのです。

で、このお話もその神話に沿って進みます。
タエ子姉さんを待っていた三人組が、あるプロダクション社長の目にとまるのです。二人の女優を抱えるだけの弱小プロですが、この社長は往年の映画スターだそうです。
社長の熱い誘いにもハカセとモーちゃんは断りますが、ハチベエはその気になってしまいます。タレントになるというのです。そしてあれよあれよと話は進み、タレント人生をスタートさせるべく、ハチベエは一学期終了と同時に転校、単身上京してしまいます。
一方、なんとタエ子姉さんが地区予選を突破、最終予選進出が決まってしまいます。そして彼女もまた、最終予選進出者だけで行われる合宿のために上京。

舞台を東京に移し、お話はこの二本のラインで進むのですが、この時点で僕はとうぜん「芸能界の怖い裏側」が描かれていくと思っていました。浮ついただけのお話になるはずがない、と。清純派が薬物事犯でお縄になる世界ですから、陥穽にはまり毒矢にかかるハチベエとタエ子さんが描かれると思っていたのです。僕もズッコケキャリアが長いですから、クラスのカワイコちゃんではなくチビとデブがスカウトされ上京した点を見逃さず、これは布石だと読んだのです。カワイコちゃんが毒矢にかかったら児童書の範囲どころかなんちゃら条例を超えるはずですし。

……はたしてそうはなりませんでした。
華やかの世界の裏側、といっても色とカネと欲と虚飾の坩堝ではなく、地味なレッスンが描かれるのです。演技の基礎としてオットセイの真似をひたすら続けるとか、大きな声で挨拶しニコッとキメ笑顔をかます練習など。漠然と芸能界に憧れていただけの読者の子には「ワークショップ」という語だけでも新鮮でしょう。
そうこうするうち、ハチベエがどんどん成り上がりの道を歩みはじめます。小学生読者を指嗾しまいという気遣いは窺えません。数年は下積みをする予定だったのに、あいさつ回りで有力者の目にとまり、いきなりテレビのサスペンスドラマに抜擢されるのです。ヒロインの弟の幼少時の役。セリフどころか表情の演技まで要求される重要な役です。

……タレントハチベエはこのまま芸の花道を登っていくかと思わせますが、ちゃんとオチました。
といっても、ハチベエの挫折や限界のせいではありません。弱小プロダクションが倒産してしまうのです。けっきょくハチベエは夏休み期間を東京で過ごしただけで、またミドリ市に帰ってきました。タエ子さんも、最終選考でトップにはなれず、これまた帰ってきます。こちらも無能と審査されたわけではなく、タエ子さんの持つおっとりした雰囲気が生きるのはもっと年齢がいってからだという評価、つまりオバサンくさいという判断によるものでした。それでも最終審査まで残ったのは快挙。現実世界のあのオーディションでも、グランプリを逃しながらその人より大きくなった大女優もいたはずですし。

ということで、芸能界に憧れスターへのサクセスストーリーを夢見ている子らの空想に細部を提供し、深めてくれるようなお話でした。ハチベエみたいに子役からスタートした方がええじゃろうかとギター練習をやめてオットセイを始めるもよし、タエ子でもありなら私だってと思うもよし。大いに情熱を鼓舞されたことでしょう。若い情熱は美しい。
たとえその情熱が、テレビや映画なんてものは出るものじゃなく焼酎を飲みながらデレッと観て楽しむのが一番だと気づくまでの、一時的な勘違いだとしても。

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2009年9月11日 (金)

ズ42 ズッコケ家出大旅行

Back42 第42巻。00年12月刊です。

三人組が家出をします。
家出といっても、青森のマルチ歌人的な家出ではありません。仏壇を背負った婦人は出てきません。
しかし、冒険心や風に誘われての旅というのでもありません。本当の家出です。家庭への抗議を意図し、新学期の学校をサボって家を出るのです。

発案したのはハカセです。彼一人で決行するつもりだったところに二人が乗ったのです。ハカセの不満は学習塾に通わされそうになったことです。家のトイレでも勉強するくらい熱心なのに何もしない妹より成績の悪いハカセは、いたく自尊心を害したわけです。で、家出を決意しました。瀬戸内から大阪へ野宿の旅一ヶ月という計画です。同調したハチベエの不満は八百屋の手伝いが無給であること、モーちゃんは自分のアイスクリームを食べられたこと。この三者三様の切実な主張を書き残して、四月の土曜の朝、三人は故郷を後にしたのです。

初日こそ電車を間違え中国山地の田舎の神社に泊まりますが、その翌日にはヒッチハイクで大阪に到着します。ここで全頁の半分くらい。すぐに目的地についてしまいました。
このあたりではっきりしてくるのですが、じつはこの巻のお話は三人の道中記ではないのです。家出旅行記というより、むしろホームレス体験記でした。
大阪天王寺に着いた早々に財布をスられてしまい、三人はスラムの顔役の娘に拾われるのです。三人組と同じ年頃の、ビニールハウス在住不登校児です。この子の手引きで、三人は公園の一画に居を構え、食料を漁り、僅かな金を稼ぐ日々を始めるのです。本当です。本当に賞味期限切れの弁当を食べ、臭すぎて店に入れない隣人の買い物を代行することで手間賃を稼ぐのです。炊き出しの列に並び、焚き火を囲んで、こんな生活もありかなとちょっと感じたりとか。

我が子を家出に誘う類の内容でないかと検閲し読み進めてきた大人は、ここで面食らうことでしょう。そして妙な感覚をおぼえる人もいると思います。
ホームレスの描かれ方がどこか新鮮なのです。大人の世界でホームレスに言及される場合の、よくあるパターンのどれにも当てはまらないのです。
例えば、誰もホームレスを通して社会矛盾を考えてみたりしません。競争社会の惨酷さを想起しませんし、経済政策批判にも向かいません。大企業の非人間性など知りません。そういう社会的な関心に堕ちていかないのです。あるいは、金銭や社会的身分に縛られない最も自然で自由な人間の姿をそこに見ちゃったりもしません。非人間的な現代社会を拒否したピュアな精神性などというお調子を重ねてみたりしないのです。
淡々と描くことで受け取り方は読者に委ねる、といった勿体つけ方とも違います。
ただ臭くて怖いホームレス、やってみると気楽さに慣れてしまいそうなホームレス、というだけです。飲食店と紳士協定を結んだり、ボランティアから説教されるホームレス。ホームレスってどうやって生活してるの?お金は持ってるの?という謎の答えがあるだけです。
僕はこの、社会問題も人間存在の意味も何も象徴しないホームレス像がもの珍しく新鮮で心地よかった。

三人組の家出生活は、けっきょく数日しか続きませんでした。三人が根をあげたのではなくインターネットのせいです。中国山地の食堂の老婆からサービスエリアの店員、炊き出しボランティアの大学生までがインターネットを駆使し、ついにミドリ市の両親まで足取りと居所を知らせてしまったのです。
天王寺で涙の対面を果たした後、三人は家に帰りました。わだかまりは残りません。ハカセの家の教育方針は改められ、モーちゃんはケーキをたらふく食べさせてもらいましたとさ。

…というお話。
家出のススメでも方法紹介でもなく、情報社会に於ける逃避の不可能性でもなく、やはりホームレスと家出の親和性という点が最も印象に残ります。家庭への不満という古典的なきっかけなのに非行を経ずににホームレスに落ち着く意外性ですね。非オザキ的家出があるということ。
この本を読んで家出の旅をしてみたいと思う子より、自宅の庭か近所の公園でホームレスをやってみたいと言い出す子の方が多いかもしれません。ホームレスごっこは不道徳でしょうか。川原での縄文人ごっことは違うでしょうけど。
ともかく。とても軽やかなお話でした。
気がつけば「ホームレスの描かれ方が新鮮なので硬直していた大人頭がほぐされるなあ」という感想が最も紋切型だったというわけです。

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2009年9月 7日 (月)

ズ41 緊急入院!ズッコケ病院大事件

Back41第41巻。2000年7月刊です。

ある殺し屋がマニラから関空を経て花山町に到着するところから始まります。
コミカルな雰囲気はありません。描写も細部に向かいます。この殺し屋は、さる大物政治家の暗殺を依頼され、二日後の結婚式を狙うべく花山町にやってきたのです。潜伏の準備と世話には地元の暴力団があたり、人の寄り付かない資材置き場のプレハブ小屋に潜むことになります。小屋には既に、分解された銃の各パーツがそれぞれ別の送り主から届けられています。決行までは、銃を組み立て調整し簡単な下見をするだけです。
一匹狼で、その腕と実績には業界内でも定評を持つこの殺し屋ですが、しかし、暗殺は実行されません。うだるような夏の午後、潜伏中のプレハブ小屋で、彼は謎の熱病に倒れそのまま死んでしまうのです。

……ここまでがプロローグ。
本編は、この殺し屋を殺してしまった東南アジア経由の熱病に三人組が感染し、発病し、入院し、治癒し、そして退院するというお話です。
しかしお話はスムーズに流れません。三人組とクラスの女子三人がこのプレハブ小屋付近の池に釣りに出かけ、翌日から一人ずつ発病していくのですが、みんな入院したあたりから、殺し屋パートとはまた違う感じで妙に硬くなっていきます。病気や感染症及びわが国の医療体制全般についての講釈がずっと続くのです。ウィルスとバイ菌の違いとか、免疫の機序とか、さらには感染症の法的分類と措置規定まで……。
まるで、防災パンフレット然としていた37巻の第二弾、病気編かと思わせるほどです。本当に丁寧な解説が出てくるので、これを読んだ子は病気に感染したり身体が戦ったりする仕組みを正しくイメージできるようになるはずです。刊行から九年、風邪やインフルエンザの病床でこの本を思い出していた子も多くいたことでしょう。

で、病気の正しいイメージもさることながら、この巻はもう一つ、「大人」のイメージについても強く印象づけられるようになっています。子供には手が届かない深遠な大人の世界を、とっつきやすい形で提示しているのです。
冒頭の殺し屋もそうです。裏社会モノのありがちなパターンを、子供が嫌悪して頁を閉じない範囲で紹介しているといった感じです。バイオレンス性も、児童書に許容されるギリギリをちょっと超えたところで留まっています。
そして、三人組の親御さんたちの「大人」ぶりも鮮やかです。子供の一大事に際し、普段にはない一面を見せてくれます。とくにモーちゃんのお母さんなど、法定伝染病がどうのと、モーちゃんや読者の子供にもよくわからない大人の言葉を駆使しながら医者や保健所の人と渡り合うのです。暢気母ちゃんの意外な底力、鞘に隠されてきたものがキラリとした一瞬でした。
さらにもう一つ。お医者さん同士の関係がたいへん模範的です。感染症センターの所長でもある内科部長と、若い小児科の女医さんのやりとりです。児童書とは思えないほど抗生物質の薬品名や病名が乱れ飛ぶ会話にあって、二人のお行儀の良さ、互いの敬意が浮き上がってくるのです。
経験に基づきチフスと診断した内科部長に対し、小児科の女医さんが日本にはないはずのデング病ではないかと進言するのですが、部長は驚くほどあっさりと自説を撤回するのです。そこには、頑迷さや、世故に長けた古狸のイメージはなく、女医さんの方にも、権威に挑もうとする衒いはありません。

このように、穿鑿したり軽視したがる反面で理想を求めたがる子供に、最適な形で「大人」らしさを提示しているわけです。ゴルゴやヒロシマ死闘編よりも先にこの殺し屋に、財前五郎よりも先にこの部長に触れておくことが、十代後半の斜に構える病に対する微力な免疫にもなるでしょう。
というわけで、子供にとって、ウィルスのお勉強だけでなく、逞しくて頼もしく微笑ましく愛すべき大人像も与えられる巻でした。それはまた、「はたらくおじさん」的雰囲気の職場も賃労働者もこの世に存在しないのではないかと気づいた大人にとっても、懐かしく心を溶かすような模範像なのです。

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2009年8月26日 (水)

ズ40 ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー

Back40第40巻。99年12月刊です。

誰がどう考えたって、タイムスリップものだと思うはずです。
僕なんか、第10巻のところでこの巻のことを「ドクは宅和先生に間違いありません。おそらく跳び箱がデロリアンに変わるんでしょう。牛乳ビンやカビの生えたパンを中に入れると空を飛ぶように改良されていくんじゃないかと睨んでるわけですよ」と自信を持って予想しています。
しかし、どうも様子が違います。表紙にはデロリアンに類するマシンもありません。深夜の体育倉庫から工具の音が漏れるところから始まってもよさそうなものですが、一家でハチベエの誕生祝をしている冬の夜が初頁の場面なのです。

怪訝な気持で進むと、すぐにこの巻のテーマらしきものが登場します。
宿題で歴史年表を作っていたハカセが、自分の歴史を年表にしようと言い出すのです。小学校卒業も近づいた今こそ、これまでの出来事の記憶を整理して自分史というようなものを書き留めておくべきではないか、というのです。
この時点で僕は、大きな感慨と期待をおぼえ、もうタイムスリップを諦めました。そうなのです。自分史作りを忘れていました。こっちの方がずっと珍しく刺激的なテーマだと直感したのです。
自分史と言えば、老境に入らんとする人が黄昏の微風を頬に受けながら物するというイメージが強いですが、実は、卒業前後の小学生にこそより相応しいものなのです。実際に作っちゃう子は少ないでしょうが、「これまでの人生を振り返ってみたい」欲求は、定年した企業戦士に負けないほどあるものなんです。身に覚えがある人もいるはずです。忘却に備えて瑣末な出来事も記録しておきたいとか、これまでの人生の価値を定めておきたいとか、そういうことではなくても、何らかの区切りをつけたいというような気持ちが一時的に盛り上がった春のこと。

ということで、三人それぞれの自分史作りがはじまります。幼稚園の頃のことなど、記憶の曖昧なところを両親や友達に質していくうちに、いくつかの謎が立ち現れてきます。ハカセは、一年生のときお母さんが交通事故で入院したため、半年間おじいちゃんの家から別の小学校に通っていたことを思いだしますが、その半年間の記憶がほとんどないことに自ら驚きます。お母さんの事故が轢き逃げ事件だったことを知り、自分の記憶欠如に無意識の介在があったのではと恐ろしくなります。一方ハチベエは、小さい頃よく遊んだはずの女の子を思い出し、胸をキュッとさせるようになります。しかし、お下げ髪の顔が浮かぶだけで名前も素性も思い出せません。

このあたりで一度、やはりタイムスリップをして事実関係を確認する旅に行くかと思わせますが、そうはなりません。また、失われた記憶を求めるお話といっても、けっして「封印された記憶」「トラウマを閉じ込めたパンドラの箱」などといった心理劇にはなっていません。
三人は、近所の人や地元新聞社の記者を訪問し、聞き出して調べていくのです。子供にとっては遠い過去でも、大人にとってはたかだか数年前のことなので、それほど難儀しません。
そして明らかになる事実。子供には知らされなかった大人の事情。轢き逃げ犯とお下げ娘との関係。
ついにハカセは記憶を補正し、ハチベエは彼女を探し当て再会を果たします。
しかし重たい結末ではありません。ハカセの過去は恐れたような陰鬱なものではなく、お下げ髪の娘は快活な中学生になっていました。

まあ、めでたしと言えばめでたしなんですが、で、どこが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なのか、という疑問が読者の頭をよぎります。スケボーもデロリアンも登場しなかったのはいいとしても、探求したのは過去じゃん、「バック・トゥ・ザ・これまでの人生」だったじゃん、と。どういうことですの?と思うはずです。
で、最終頁近くになって、その疑問にハカセが答えします。曰く「つらい過去でもふりかえる勇気を持たないと、未来はやってこないんだ」とのこと。過去を見つめることで逆に未来へ進みはじめるべしってなことでしょう。70年代の青春ドラマのような締めの訓示です。

……ハカセの達観はすばらしいとして、ですがこれをそのままこの巻のテーマと受け取ってはいけません。「未来志向になりましょう」などという、歴史論争の幕引きみたいなまとめ方を小学生のうちから覚えてはろくな大人になれません。といっても、幼い恋は性徴期前に総括しておけということでもありません。

小学校を卒業する頃には徹底的に過去にこだわるべし、というのがこの巻のテーマなのです。
ある意味で人生の中で、安心して過去に拘泥できる最後のチャンスかもしれないのです。
このチャンスに、その方法を模索しながら、記憶の一定の整理と評価をつけておくといいよ、ということ。自分の幼さというものはちゃんと整理してアクセスしやすい記憶にしておくと後で便利だよ、ということです。
電車内や独りで静かに呑むバーで、急に身体をぴくっとさせて短く声を漏らす人がいますが、おそらくあれは、整理できていない記憶に不意撃ちをくらった瞬間です。悔恨にまみれた記憶はこうやって大人を襲うのです。
眠れない夜、ああと言いながら頭を抱える大人は、将来の不安ではなく過去の恥辱に襲われているのです。将来の不安は人から声と動きを奪います。だから本当に声を出したり無意味に身体を動かしているときは、過去の記憶に襲われているわけです。僕もよく、手に余るほどの恥辱の記憶に苛まれるときがあります。そういうものです。遠い目をしながら女性に語り、手をとりあってタマ川に入るような文学的な恥は現実にはまずありません。

やはり、自分史を作るとしたら、または過去と戯れるとしたら、小学校卒業の頃が最高の機会です。その機を逃すと、悶絶か虚飾なしには自分史など書けない大人になるでしょう。
赤面ネタを小学生時代に量産した人はもちろん、不幸なことに中学生以降も量産する性分の人はなおさら、小学生時代の記憶は中学前に整理しておくといいですよ、と、この巻は教えているのです。タイトルのとっつきやすさに反し示唆に富んだお話でした。

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2009年8月20日 (木)

ズ39 ズッコケ海底大陸の秘密

Back39第39巻。99年7月刊です。
海の底にある謎の国につれていかれ、なんやかんやとあった後で帰してもらうお話。

舞台は、四国から豊後水道付近の瀬戸内海に出ている半島。夏休みのお話です。半島の小さな町にハチベエの叔父さん夫婦が住んでいて、ここに三人組が遊びにやって来ます。

島に着いた翌朝に、町のベテランダイバー藤本さんが前日から行方不明だという知らせが入り、お話が動きはじめます。藤本さんは、カッパが出るという噂を確かめるべく海を捜索に行ったきり、錨泊した船を残していなくなったというのです。

この藤本さんを探すうち、三人組は藤本さんの娘さんと共に拉致されることになるのですが、僕は、冒頭のこの場面で「カッパ」の一語を見て、「夏休み・少年・カッパ」の組合せにげんなりしそうになりました。定型的な「夏休みにお婆ちゃんの住む田舎にやってきた都会の少年と、大人には姿を見せない地元のカッパとの心の触れ合い、ひと夏の出会いと別れ」ってな調子が出てくるのを危ぶんだのです。ろくに見たこともないので具体的な作品をひとつも挙げられませんが、平成になった頃からカッパ譚は急速につまらなくなった印象があります。平成のカッパは安易に少年と心を通わせ合い、子供の都会的ストレスを癒しちゃったり、少年と共に無理解な大人や河川工事をする土建屋と戦っちゃったりするんです。たぶん。子供を水に引き込んで溺れさせることもしません。相撲をとりつつ背後にまわりダウンさせた後に肝を吸うこともしないのです。晩酌する夫婦カッパ、性器はないくせに乳房はあるあの黄桜夫婦と較べても、あまりに親しみやすすぎます。なんと御しやすい異形か。

……幸いなことに、海底大陸はカッパの国ではありませんでした。人類です。進化の過程で我々から枝分かれした、カッパのような皮膚を持つ海底人類です。しかも地上の人類よりも発達した文明を持っています。
海底の先進文明といえばネモ艦長のお話を思い出す人もいるでしょうが、こちらの方が事情が複雑です。また、砂浜にいるところを襲撃し失神させた上で拐取するあたりに非道国家の謀略を連想する人もいるでしょうが、そんなのよりも穏健で友好的です。
海底人は地上人類の未来を案じて看視しているのです。マンモスがいた太古の昔、もともと地上で高度な文明を発達させるも核エネルギーの扱いに失敗し崩壊させてしまった海底人が、現生地上人類が同じ過ちを犯さぬよう見守ってるというのです。そして、地上人の中からその協力者を養成し既に何人も世界のあちこちに派遣しているのです。三人組と藤本さん親娘はその協力者候補として攫われてきたわけです。
この人類史的規模の秘密に触れ、ハカセなどは人類の未来のために現在の人格を捨て別人として地上に派遣されることを了承しようかと迷ったりします。
結局、適正審査に失格したということで、5人は無事に町に帰されます。気がついたときには砂浜に倒れていました。数日前に気を失ってからの記憶は消されています。

そしてラスト。
夏休みが終わり二学期の始業式。新任の先生が紹介されます。ニューヨークから迎えられた、日系のマリヤ先生です。国際化時代の教育のためだそうです。
なんと、この若い女性教師こそ、海底大陸で三人組に海底人の歴史や活動を教えてくれた人なのです。ハチベエらはどこかで見たような気がするけど、まったく思い出すことができません。海底人の協力者はこうやって地上で生活を営みつつ、人類の安寧のために使命を遂行しているのです。何も気づかないハカセは、今日も読書。マリヤ先生が「へえ、ハカセくんはムー大陸の秘密に興味があるの」と微笑みます。

……というお話。後半部で展開される海底人による現代文明批判(原発がどうとか環境破壊がどうとか)をできるかぎり読み流すようにしているうちにラストまで来てしまったという印象でした。
といっても、そこはズッコケ。「海底人の指摘に肯きながら環境問題への意識を高めちゃう子」ではない子にも、楽しく有益なお話になっています。僕が無理矢理に見つけました。
ラストのマリヤ先生が秀逸です。「先生は特殊な使命を帯びた非人類かもしれない」という発想。隠された正体があるのではという存在への疑念を、自己ではなく外部に向けることの示唆が、子供の心的発育に有用かと。
思春期にかけて小さい子の中で、「自分はもともと自分じゃなかったかもしれない。小さいときの記憶に曖昧なところがある。生まれてしばらくは別人だったのに、ある時点で魂が入れ替わって今の自分になっちゃった気がする。最初は別のところで暮らしていた気がするぞ」という妄想を持ってしまうことがあります。離人症的というのかどうか知りませんがこのテの空想はクセになりやすく、望ましい成長を阻害することになりますが、しかし存在論的な問いを抱いたことがないまま大人になるのもまた問題で、何らかの形で実存理解の作法を模索しなくてはいけません。問いを外部に向けるといっても両親や血縁者ではまずい。やはり自己のルーツに関与しない誰かが望ましいのです。先生なんて格好です。
つまり、異界を対岸に措定するというのは心的発育の大切な条件で、あちらの異界を見ながら此岸の自我と家族観を固めるのが安全な成長過程なのです。
こういうお話は、ともすれば内側に向きがちな疑念を外部に仕向けてくれるからいいのだ、マリヤ先生の使命はそういうことでもあるのだと、核エネルギーや環境問題のかわりに考えました。

対岸といえば間にあるのは水。水といえば海。海の向こうにあるものといえば島。異界としての島といえば沈んだ古代文明。沈んだ古代文明といえば海底文明。
海に沈んだ超古代文明大陸というのは、哲人プラトンも言及しているほど伝統的な異界なのです。異界だの異形などは無邪気な顔で微笑んどけば向こうからドラマを携えて来て理解可能になってくれると言わんばかりの、サビ抜きカッパ譚じゃなくてよかった。

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2009年7月24日 (金)

ズ38 ズッコケ怪盗Xの再挑戦

Back38 第38巻。98年12月刊です。
「再挑戦」に「リターンマッチ」とカナが振ってあります。二度目の登場「怪盗X」は「かいとうえっくす」と読みます。
ひとつ前の第37巻のところで、「次巻では大震災はなかったことになっているはず」と書きましたが、地震どころか、舞台は第26巻直後まで戻ります。ミドリ市に現れた怪盗Xの一味が、三人組に犯行を阻止され逃走した事件の、その一ヶ月ほど後からお話が始まるのです。
つまり第26巻の続編です。「怪盗Xモノ」の第二弾というわけです。そして、ズッコケシリーズのタイトル一覧を見ると、怪盗Xモノは三部作になっていることがわかります。

第一弾(第26巻)のところで書いたように、怪盗Xは乱歩二十面相に類似した紳士ですが、何人かを従え組織的に窃盗を働いています。また、90年代も暮れ方の本ですから、怪盗VS小学生といっても、少年探偵団が自転車でパトロールをしたり腕時計型トランシーバーを駆使するわけではありません。今回狙われるのは、デパートで開催される「世界の宝石展」です。こういうあたりも、前回の「九条家に伝わる国宝級の茶器」に比べ乱歩風味から離れています。
今回の怪盗Xは、宝石だけでなく三人組への意趣返しを狙っています。彼らの家に犯行予告の電話をかけるなど、すでに怪盗Xは三人組をライバルとして見ているのです。再度犯行を阻止すべく知恵を絞る三人組、子供に出し抜かれるわけにはいかない県警、無事を祈り続けるデパート社長。世界に二つとない宝石に何かあれば国際問題に発展するとあって政府筋まで注視するなか、ついに怪盗Xの計画が実行に移され……というお話です。

実際に読めば誰でもすぐに気づくことですが、この怪盗Xシリーズは、ズッコケシリーズにいくつかある探偵モノや事件モノとは似ているようで全く趣きが違います。
三人組は探偵でありながら、隠されている手がかりや犯人を探ることが主軸になりません。予め知られた敵との競い合い、知恵くらべなのです。探るまでもなく最初から対象が同定されており、向こうもこちらのことを意識しています。この構造が、同じく犯罪をめぐるお話でありながらミステリー的世界とは一線を画しているのです。ミステリーよりずっと軽快で活劇的です。そして、こういうお話は、敵が初対面ではなく定期的に登場する固定したキャラになるほど味が出てきます。強拳殴打でふっ飛ばされるも何度も対決を繰り返す餡パンとバイ菌のようなものです。
ズッコケは長いシリーズですから、こういう、何巻おきかで登場する定番キャラが活躍できる余地がたくさんあったはずです。もっと早くに出てきてもよかった。定期的に登場する神出鬼没キャラとしては「怪盗」はうってつけです。「忘れたころに現れて宅和先生に憑依する花山町の浮遊霊」というのも僕は好きですが、怪盗よりも読者を限ってしまうことでしょう。

ということで、もう次回が最終決着編になるのがもったいないようなXでした。
で、このXの正体について、ハカセの推理が披露される場面があります。どうも最終決着編への伏線になりそうな、彩りの深まりを予言するような発言です。曰く、Xら一味は倒産した会社の同僚で結成されたグループなのではないか、とのこと。
これはある意味、タイムリー。ただの活劇的読み物にとどまらず、社会派的哀情まで誘いそうな雰囲気です。いよいよ楽しみになってきました。
こうして読者は最終決着編を待つことになるのです。純文学的な煽り文句で言えば、不況時代の寓話の予感とともに。

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2009年7月 1日 (水)

ズ37 ズッコケ脅威の大震災

Back37 第37巻。98年7月刊です。
地震のお話です。大地震です。花山町が壊滅的被害。
前々回に、ズッコケはシリーズを通して舞台設定が変化せず、舞台の変化は各巻のうちで元通りに納まると書きましたが、その法則が適用されません。最後まで、団地も八谷商店も再建されないのです。
おそらくこの巻は「番外編」のようなものです。次巻には地震被害などなかったことになってるはずです。

ストーリーらしいストーリーもありません。井戸の枯渇やボラの大発生といった前兆があり、数日後に大地震発生、三人組はじめ町内の人たちが避難所になった小学校で暮らし始める……というものです。非常時にあって助け合う家族の姿や友情の美しさなど、それらしい見所はあるにはあるのですが、なかなかズッコケを読んでいる気になりません。ちょうど防災パンフレットを見ているような気分になりました。

96年に出た34巻の宗教ネタがタイムリーだったのに比べ、この巻はそうではありません。宗教ネタが盛りあがったのと同じ年に全国的に知られた大震災がありましたが、すでに三年以上経っています。では、ここにきてなぜ地震なのでしょう。ストーリーの起伏より震災の細部描写に力点が置かれた意図は。……すぐに思い浮かぶのは、「地震被害の実態を、より正確かつ具体的に実感させるため」というものです。子供の世界にはよくある意図で、僕が小中学生のころは、この「地震」が「戦争」になったものがいくつかありました。大切なことなので当事者になったつもりでよーく想像してみましょう、というやつです。
しかし、もし本当にこういう意図があったとしても、僕にはほとんど効きませんでした。それは、僕が昔からそういう啓蒙的善意が苦手だったからだけではなく、地震について子供よりいくらか多くのことを知っており、ズッコケを通して地震を知る必要がない大人だからです。逆に、95年の大震災のことすら記憶の薄い子供たちにとっては、新鮮な情報がたくさん詰まった本ということになったのでしょう。
さらに、「戦争」とは違い「地震」のお話は、子供たちにとって、心のシミュレーション、現実に発生した場合のパニックを予防する効果も持つはずです。この巻が刊行された98年以降も、国内だけでも何度か大きな地震が発生しました。ある日突然家が倒壊し体育館や公民館に泊まることになったその夜、簡易布団の中で目をつむったその瞬間に、どんなことがその子の心に浮かんだか。おそらく、この巻を読んでいた子とそうでない子では、何かが違ったことでしょう。ああハチベエらもこんな感じだったなあと想起することが、まったく無益ということはなかったはずです。震災といえばジーパンキャスターの慇懃な被災者インタビューが浮かんでくる大人よりずっと平安が望めます。

というわけで、子供にとっては有意義たりうるものの、あくまで番外編的位置づけの巻でした。
大人には向かない、というより、大人が読むにはある種の想像力が要求される巻ともいえます。つまり、この巻のお話と、それが子供にとって非常事態の事前シミュレーションとして機能するさまを合わせて想像しながら、この巻の主題を自分に合ったものに変え、自分なりのパニック予防譚を頭の中で構築しておくという読み方です。ここまでしてやっと、大人の自分には既知の情報ばかりだった『ズッコケ脅威の大震災』が生きてくるのです。『ズッコケ大失業時代』とか『ズッコケ持株大暴落』とか『ズッコケ養育費攻防戦』とか…そういうのは自分の頭で描くしかないのです。大人とはそういうものなのでしょう。

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2009年5月 5日 (火)

ズ36 ズッコケ三人組のダイエット講座

Back36第36巻。97年12月刊です。
ダイエットのお話です。
もちろん、ダイエットをするのはモーちゃんだと、読む前からわかります。
そして前巻で書いたように、シリーズを通して三人のキャラクター設定は変化しないはずなので、モーちゃんのダイエットが失敗することも、ほぼ確信できます。次巻からスマートなモーちゃんになるわけがないのです。
ともかく「ダイエット」です。僕はちょっとげんなりしました。
理由はまず、小学生が色気づくことを嫌う僕の好みのせいです。そして、それとは似ているようでまったく違う、ある種の社会的良識の気配のせいでもあります。「小学生」「ダイエット」とくれば、必ず出てくるあれです。やれ「成長期なのに」とか「テレビの悪影響で…」などと、反射的といった感で絡んでくるこのテの良識の気配が、タイトルを目にした瞬間から感じられ、げんなりしたわけです。もちろん、ズッコケともあろうものが紋切型の良識に則るだけのお話であるはずがないのですが、どうしても何らかの妥協を強いられ内容の充実がおろそかになっているような予感がしたのです。もちろん僕も、成長期にある子供の過剰な食事制限を肯定するわけではありません。そうではなくて、このようにこんな拙文の中でも一言「肯定するわけではない」と書いておいたほうがいいんじゃないかという気にさせる、その暗黙パワーの気配が気を萎えさせたわけです。

で、内容です。
秋の身体測定の結果から始まります。春から6キロ増の159センチで69キロ。さすがにモーちゃんも気になります。ちなみにハチベエが138センチ30キロ、ハカセは144センチ31キロ。「そんなに肥ってると心臓に負担がかかって危険だ」とハカセに脅かされ、モーちゃんの減量作戦が開始されます。一日で7381キロカロリー摂っていたところを1600キロカロリーに制限する、給食すら残すような過酷な生活が始まったのです。ハチベエはランニングなどの運動を指導し、ハカセはカロリー計算や栄養管理など理論方面のアドバイスを担当します。
「禁煙とダイエットに王道なし」の格言通りにお話は展開します。小規模な成功と挫折の繰り返しです。一週間の努力が一日で水泡に帰す残酷な展開。挫折の苦味をエクレアの甘さでごまかし、溜息はどんぶり飯で腹におし戻すモーちゃんの姿はマンモス西氏を彷彿させます。そしてリバウンド。ついにモーちゃんは禁断の一歩を踏み込んでしまいます。会員制の地下組織、秘密のダイエットクラブに誰にも内緒で入会してしまうのです。入会金十万円也。うさんくさいクラブですが、期待以上の効果をあげ二週間で13キロも痩せてしまいます。しかしお話はまたも悪いほうに展開。クラブの経営者が摘発されてしまうのです。詐欺だけでなく薬事法や医師法違反にも問われてのことです。モーちゃんが食欲抑制のために毎日摂っていたのは危険な違法薬物だったわけです。
そして、終盤にきてモーちゃんに深刻な問題がもちあがってきます。ダイエットをやめたつもりなのに、いつまでも食欲が戻らないのです。体重は減り続け、とうとう45キロまで落ちてしまいます。干乾びたようになり何度も倒れる始末です。内臓の問題でも薬効の残りでもないようで、つまり心理的な問題です。潜在意識が食べることを禁忌にしているようなのです。ハカセの口から「拒食症」「衰弱死」という語が囁かれ、事態はいよいよ切迫してきます。
もう残り数頁なのです。モーちゃんは肥ったまま終るはずなのにどうしたことだろうと読者も心配するころ、ハチベエとハカセの妙案が登場します。
忘年会です。女の子たちも入れて、モーちゃんの前で楽しく飲み食いするのです。みんなの食べる姿を見せ、享楽的な雰囲気で包み、会話に意識を向けさせつつ知らず知らずのうちにご馳走に手をつけさせようというわけです。……成功です。気がついたときにはお寿司もアイスも食べていたモーちゃん。すっかり食いしん坊に戻っちゃいました。じきにぶくぶく肥えて元通りでしょうね、めでたしめでたし。

……というお話です。無理なダイエットが健康を害することや、コンプレックスあるところ悪徳業者ありという現実、心までが蝕まれる危険性が描かれている点で、最初に予想していたとおり紋切型におもねっているようにも読めますが、最後にきて僕はすっきりしました。ひとつだけ、時勢にのった良識をうっちゃっているのです。
みんなが宴会でモーちゃんの心を治したところです。ここに、僕は大げさに言えば反時代的な姿勢を見たのです。この「時代」というのは、大文字のサイコロジーが幅をきかせすぎている時代のことです。人の相談ごとに対し「ああ、そういう悩みならいちどカウンセリングを受けるといいよ」と応じる人が本当に出現し、それが解決に近い妥当な回答だとなんとなく認められてしまうような、心理療法やらのタームがやたらと目につくようになった時代のことです。
僕には、おかしくなったモーちゃんを見た理論派のハカセですら「カウンセリング」とか「クリニック」と言わなかったのが痛快でした。それは、自分たちで直接なんとかしてあげたいと考える友情の美しさではありません。「調子が悪くなった心には心で応じる」という発想の新鮮な懐かしさ、「心的外傷は心の専門家へ」という良識が登場しそびれてしまうことの豊かさです。
職業カウンセラーが駆使するメソッドのことを、幻術や売卜の類だとも、逆に万能な療術だともいうわけではなく、ただ、ムツカシイことなんか知ったことかという気分、病んだ心に作用するチャンネルは複数あった方がいいという気分、ある種の野暮ったさも留保したいという気分を肯定される清々しさです。人の熱で心の通りがよくなることもありえるという単純な事実。ラストの宴会療法は、事件報道からエンタテイメントの伏線にまで登場するサイコロジーの退屈さから救ってくれます。

というわけで、ダイエットというタイトルながら、みんなでモリモリ食らう場面がもっとも滋味のある巻でした。ダイエットと掛けまして心の病と解いて、その心はどちらも最低限の熱量は必要ですということです。座布団ください。

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2009年4月 5日 (日)

ズ35 ズッコケ三人組ハワイに行く

Back35 第35巻。97年7月刊です。

ハワイに行くお話です。
ガムの包装紙を十枚集めて応募する「ハワイ三名様ご招待」に、モーちゃんが当選するのです。
三人がどこかに行って帰るお話といえば、第24巻。あの修学旅行を思い出しつつ読み進めました。

巻頭、モーちゃんが当選するくだりに続き、パスポートの申請に必要な書類や各種手続きなど、実践的な「海外旅行マメ知識」に頁がとられます。小学五年生のうちに申請すると手数料が半額ですむそうです。小学校業界での超メジャー書籍で紹介されたのに「五年生の誕生日プレゼントにパスポート」が流行しなかったのが不思議です。パスポートの次は海外旅行必携品の準備、新幹線のぞみ号、成田エクスプレスと続き、巻の四分の一を過ぎてとうとう出国することになります。

どうやら本当に「行って帰る」お話らしいと察せられたのですが、僕は修学旅行の二の舞を心配するのとは別の感慨の中にいました。
それは、ああ、このお話は長いシリーズの中のひとつなんだなあ、ズッコケシリーズは安定期にあるんだなあ、という感慨です。ズッコケは大河ドラマではないので、各巻を通して時間は流れません。また、読みきりとはいえ、設定は全巻で維持されるので変化することはありません。三人の誰かが転校してしまうこともありえないわけです。ドラちゃんがどんなに革命的なアイテムを出そうと、最後にはオチがついてノビ少年の能力や社会的ステータスが元のままにおさまるのと同じです。トンカチで叩かれた大きなコブが次のコマで治る漫画よりもさらに自由度の少ない児童書において、「どこかに行って帰る」お話というのは、始まりと終わりに変化をもたらさずにバリエーションをとる一般的手法なんだな、と。ああ、そういうことなのかと思ったわけです。で、「行っては帰る」「五十巻」「お定まりキャラ」「安定シリーズ」といえば、わが日本にはフーテンのタンカ売映画があります。かの名シリーズも、甥っ子の成長を除けば変化のない、旅とマドンナで彩りを変える名作群です。

このアナロジーは、大人になってからズッコケを読む場合の特権のようなものです。これに気づいた人は、寅的安心感とマドンナの影の中で読み進めることができるわけです。だから、ハワイ到着後に出てくる「真珠湾の歴史マメ知識」など、サラーッと流れていきます。(ちらっと横目に入っただけなので詳しくは知りませんが、この「真珠湾の歴史マメ知識」に意義を見出したらしいどなたかが、その受容を「解説」と称し巻末で開陳しているようです。「コムツカシイことはいいから燃えるような恋をしなよ」という声が聞こえない、特権に恵まれなかった不憫な方なのでしょう)。

お話は予想通り展開します。マドンナが登場するのです。日系4世のキャサリンちゃん。迷子になった三人組が、彼女とパパのジャック有村に助けられるという出会いです。そしてなんと、このキャサリンちゃんの有村家とハチベエの家との奇妙な因縁があきらかになるのです。時は明治末。花山町にいたキャサリンの曾爺さんが、八百屋を営むハチベエの曾爺さんから許婚を奪いハワイに駆落ちをしてきたというのです。燃えるような恋は百年前でした。親が一方的に決めた縁談とはいえ、婚礼の五日前に出奔したことを曾祖母さんも気に病んでいたそうで、消息のわからなくなった八谷氏のことを心配し、子や孫に何度も話して聞かせていたというのです。有村氏にとっては、その八谷良吉さんの曾孫とハワイで遭遇したことに何かの運命を感じます。そして唐突に、ハチベエの縁談まで話はすすみます。過去の償いの意味でも、将来有村家の婿養子にどうか、というのです。有村家はハワイでホテルやゴルフ場をいくつも経営する家です。降って湧いたような幸運。八百屋の跡取から大富豪への転身、美人妻キャサリン…。

ここで安定感が揺らぐ読者もいるでしょうが心配ありません。例のタンカ売映画でも、主人公はマドンナだけでなくしばしば有力者に好かれます。社長とか市長、芸術家や大学教授などなど。でもけっして寅氏はフーテンをやめません。必ずオチがつくのです。
この巻でも同様でした。
帰国後判明したのですが、有村家と縁があったのは、同じ花山町でもハチベエ家とは別の八谷家でした。そもそもハチベエの家はもともと石屋で、八百屋に商売変えをしたのは先代だったのです。
つまり、養子も富豪も全部パー。理想的なオチです。
最後は、ハワイのじいさんと互いの早とちりを手紙で詫びて、また日常に戻ります。
「手紙による総括」と「日常」による締めといえば、まさにヤクザ兄貴が旅立った後の団子屋。一足違いで届いたマドンナからの手紙、堅実な妹がそれを読み上げるシーンを想起せずにはいられません。
安心感に包まれながらも、幾度も確認される類似に驚ける一冊でした。

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2009年3月14日 (土)

ズ34 ズッコケ三人組と死神人形

Back34第34巻。96年12月刊です。

…野心作です。よく言えば。
事件ものですが、これまでのとはずっと趣が違います。本格ミステリー風なのです。で、本格ミステリーとズッコケは合わないだろうと素人はすぐに考えてしまいそうですが、事実その通りなのだと確認できてしまうあたりが、野心的なのです。

本格らしく、本筋に先立ってものものしいプロローグから始まります。それぞれまったく関係のない三件の事件が語られるのです。仙台の会社社長、大阪心斎橋のブティック店長、都心在住の有名俳優の突然死。いずれも事故として処理されたのですが、死の直前に何者かから三十センチ程の死神姿の人形が届けられていた点が共通しています。互いに遠く離れているため、誰もこの共通点に気づいていません。
で、お話が始まります。今回の舞台は、年の暮れ、雪山の最奥にある山荘です。オーナー主人は、ハカセのお父さんの元部下で、三人組はスキーをしにやって来たのです。山荘の客は、三人組の他に、四人連れの女子大生、写真家と助手、そしてこの山荘に出資した悪徳金融会社社長が妻とスキーコーチを連れて来ており、主人夫婦と二人のアルバイト(地元の兄妹)を含め、十六人が居合わせています。写真家は横柄で口が悪く胡散臭い人物。出資者の社長は悪徳経営が破綻したばかりで、債権者や警察から逃げて来ているところです。で、これだけのメンバーが揃った日、この山荘に死神人形が届けられるのです。スキーコーチが死神人形と不審死にまつわる噂を披露し、皆を怖がらせます。「これがその死神人形と同じものだとは限らないよ」などと語り合い、「何も起こらないといいね」と口々に言われたその夜、もちろん起こります。火事です。深夜に裏の倉庫が全焼。悪徳社長の焼身自殺と推定されるも、はっきりしません。電話線が焼き切れ、スノーモービルや車も破損し、さらには豪雪で町との往来が断たれ、山荘は孤立してしまうのです。本格ミステリーですから、事件は続発します。次は密室の事件です。写真家の凍死体が発見されるのです。悪徳社長の件が自殺に見せかけた殺人だったとすると、最も怪しまれたはずの男の容疑が消えたわけです。酒に酔って窓を開けたまま寝てしまったのか、それとも…。ベッドの脇に、前夜から無くなっていた例の死神人形が発見されます。これはもう、明らかに予告された死、何者かが仕組んだ事件だということになり、山荘内に不安が広がります。
で、次の第三の事件で犯人が判明します。ネタバレを避ける意義を感じませんのでちゃっちゃと書いてしまうと、女子大生の一人、美人の礼奈さんが犯人です。天候回復後に到着した警察がちゃっちゃと解明してしまったのです。礼奈さんは皆の前で犯行を自供し、直後に服毒自殺してしまいました。で、終わりです。…驚きました。唐突な解決です。推理もへったくれもありません。

構成的破綻、などというマイナーな劇評のような下品な言葉さえ浮かびかけてしまいました。この終盤は本格ミステリー的世界とズッコケとの軋みかと思います。
多少とも他のミステリーを読んだことのある大人だから物足りないのであって、児童書しか読んでない子にとってのミステリー入門としてはいいのかもしれません。イギリスの古典を読み、大人用乱歩で心に粘り気を生み、SF風味に刺激され、横溝で田舎観が変わり、時刻表が数字の羅列とは思えなくなり、同時代最新作のアイデアに踊り、通を自認する頃『虚無への供物』で唸る…というルートの入口ということです。
確かに、雪山の山荘というのは基本的な舞台です。集まった人たちも過不足ありません。これから起こる事件に下世話な動機を感じさせないための、オカルト風味の小道具もきっちり押さえてあります。いかにも恨まれてきた男といかにも怪しい男の死が続くのも定番と言えましょう。犯人の動機は復讐と罪のなすりつけ、というわけです。悪徳ジジイに恨みを持つといえば、不動産詐欺で一家離散の過去などの裏ストーリーが想起されますが、復讐の誓いを胸に成長したキャラとしてうってつけの兄妹もひっそり登場させています。そして、結局犯人はいちばん深みのなさそうな若い美人だったという「様式的意外さ」で締められています。
なるほどこう見ると、ミステリー入門でありそうなのですが、やはり不満が残ります。
まず第一点。ズッコケじゃなくてもいいのでは。むしろ…ということです。本格ミステリー的世界にあって場違いなのはモーちゃんだけではありませんでした。まるで重厚な演技巧者で脇をぎっちり固めすぎたアイドル映画のようです。
第二点。正統らしいストーリーでありながら、犯人の動機だけが妙なのです。女子大生礼奈さんの明るい表情の奥には、積年の恨みも、忘れられない辱めの記憶もありませんでした。なんと彼女は、ある「秘密の組織」の一員なんだそうで、その「組織の掟」により、死神人形の送付と殺人を遂行したというのです。なんだそれ。何を目的とした何という組織なのか、なぜ人形なのか、毒飲んじゃったから全く明らかにされません。
僕は脱力しましたが、子供は喜ぶのでしょうか。
あるいはこれは、続刊への壮大な伏線、ネタ振りなのではとも考えてみたのですが、しっくりしません。おそらく以下の巻でこの組織の全貌が明らかになることはないでしょう。読者諸君も楽しみにしようがありません。そもそも死を招く死神人形は不幸な人のもとを巡っているのではなく、その都度作られているのです。「多くの無念を吸い取った人形が今もどこかに…」という空想が許されないわけです。使い捨ての量産品ですから。それは組織の末端で機械的に製造され梱包されているだけです。とりあえず母親の裁縫箱を疑うくらいしかありません。

というわけでズッコケ入門としては薦められない一冊でした。

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2009年2月24日 (火)

ズ33 ズッコケ三人組の神様体験

Back33第33巻。96年7月刊です。
もう十年以上も前のことですが、96年に「神様体験」とくれば誰もがああと思ったはずです。地下鉄に毒が撒かれヒゲもじゃ教祖ら一味がお縄になった翌年です。考現学的興味や諷刺衝動に駆られた人がどのチャンネルや誌面にもいた頃ですから、ズッコケまであれか、と受けとられたことでしょう。あれ、というのは宗教とか狂信のことです。現代の諸問題はすべからく信仰とカルトの問題であるべしってな風潮だったのです。今は「市場経済」の語に置き換わってしまいましたが。

で、内容です。想像したほど浮世の騒ぎを反映したものではありませんでした。三人組が地下教団に潜入するとか、あるいは教団を設立して蓄財と謀略に励むとか、そういうことは一切ありません。
秋祭りのお話です。花山駅前商店会が、花山八幡神社のお祭りに合わせた客寄せイベントとして、手づくりおみこしコンテストを催すと決めるところから始まります。ハカセのアイデアを、八百屋の長男ハチベエが父親に提案したのです。賞金は十万円。三人組のいる六年一組の有志も参加することになります。八幡神社は隣町にあるので、花山第二小学校の子らは一度もおみこしをかついだことがなく、はじめてのおみこしというわけです。一方、花山八幡に大昔から伝わり戦前に絶えていた「稚児舞い」の奉納が、氏子総代の呼びかけで復活することになります。古いフィルムが見つかり、男の子らが剣を持って踊る、神楽のようなその振り付けがわかったのです。この稚児舞いの演者の候補にハチベエも加わることになり、隣町の老人が指導する練習に参加するようになります。と、学校でのおみこし作りとハチベエの練習とが並行して進むのですが、妙なことが起こります。ハチベエの頭がよくなるのです。商店会事務所でちらっと見ただけの、おみこしコンテスト参加団体リストをさらさらと暗誦したりします。そして、なんと漢字テストで満点をとるのです。ハチベエのくせに。ここで、一つの噂話がまことしやかに語られます。それは、戦前稚児舞いが中止となったいきさつを巡る噂です。稚児舞いを踊る子の体に神様が入り、ときにそのまま出ていかなくなるというのです。憑く、というわけです。おかしくなっちゃった子が何人も出たので、稚児舞いは封印され誰も多くを伝えたがらなかった、と。町の老人には、あれは集団食中毒があっただけだと言う人もいます。しかし、本当に神がかり体験だったのだと述懐する老人もいます。それに、ハチベエが唐突に頭脳明晰になるなど、まさに神がかったとしか思えません。さらに、舞いの練習中に一人の子が失神するという事件も起こり、もはやハチベエはシャーマンへの道を進んでいるかのように、ハカセらは危惧します。
そして迎えたお祭りの当日。あっけなく終わりませんでした。とりたてて非凡なところなどないうるさいちびっ子で、およそ巫覡的な資質など持たないハチベエにすら、神様が降りてきたのです。太鼓と笛の音と剣舞の極みの瞬間、完全な静寂がハチベエを包むのです。ハチベエは宇宙にいました。地球を見下ろしているのです。ハチベエがたった一言つぶやきます。ネタバレは避けますが、なかなか味のある一言です。忙しい人はこの台詞だけでも読むといいでしょう。そういう人のためにこの部分だけ太字になっています。
…と、こういうお話です。もちろん、ただ失神していただけのハチベエは、病院で目をさまし俗に帰ってきます。ハチベエらしい頭脳も戻ってきました。

新興教団や世捨て信徒が出てこない点で、当時喧しく語られていた「当世の若者と宗教事情」を敷衍したものではありませんが、それでもそんな世相を横目で睨んでいるところはあります。
このお話には三つのズレがあります。教義ぬきの宗教、イニシエーションぬきの脱俗体験、宗教ぬきのおみこし、です。おそらく、この三つがキモです。意図されているのは、もちろんアニミズム的原点回帰の勧めではなく、ましてやカルト予防でも一切の「宗教的なもの」の相対化でもありません。もっと穏やかで日常のベースに溶け込める、子供の丈にあった宗教観です。宇宙、幽体離脱、狐憑き、民俗伝承、超越存在、を統合したイメージの提出ともいえます。ハチベエが天上から地球を見下ろすイラストはかなり印象的です。『宇宙からの帰還』という、もじゃもじゃ頭のジャーナリストが宇宙飛行士にインタビューした本を思い出しました。裏山と鳥居と地球の外を結ぶ世界像、風土に馴染んだ、人生を棒にふる危険がない無料の神秘観です。騒がれすぎたことで矮小化され固くなっていた宗教全体のイメージを少し溶かすストーリーでした。

といっても、当時はとくに、オカルトや宗教じみたお話を敬遠する向きもあったことでしょう。そこはそれ、学校図書室の王ですから、その辺りへのフォローもしっかりとあります。幻覚のような体験は首を激しく動かすことで脊椎に過度の負担がかかり自律神経にも影響を与えたせいであり、気絶は鞭打ちによるものだと、宮司の幼なじみの医師が結論づけるのです。あまりにミもフタもない、高音の理工学部教授的オチですが、まあ、これもバランスでしょう。親御さんも安心できる一冊ってことです。

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2008年12月29日 (月)

ズ32 ズッコケ愛の動物記

Back32第32巻。95年12月刊です。

たくさんの動物を飼うお話。
佳作です。
昔こういう本を読んだことがあったなあ、と懐かしくなりました。これまでのズッコケにはなかったテイストですが、児童書におけるウェルメイドの典型の一つです。

お話は、入学式の日の午後、新六年生のモーちゃんが捨て犬を拾うをところから始まります。かわいい子犬です。でも、モーちゃんの家は団地の市営アパートなので飼うことができません。近所や学校の子にも飼ってくれる人がおらず、結局ハチベエの提案で、駅裏の廃工場で飼うことになります。命名ムック。三人組が分担して、登下校時にエサをやることにしたのです。しばらくしてムックは引き取り先が見つかってもらわれていきますが、入れ替わるようにして廃工場にいろんな動物が持ち寄られてきます。ニワトリ1、ウサギ2、リスザル1、アオダイショウ1。クラスメイトの家や学校で持て余された動物たちです。持ち寄った子らも飼育に加わります。スペースも廃材も豊富にあるので、小屋や囲いはたくさん作ることができます。そこで「動物園計画」がハチベエの頭に浮かぶようになります。一人百円、全児童で七万円也。もちろん実現しません。ハムスター、ジュウシマツ、カメ、ヤモリと、動物が増えてきたところで、工場跡地の売却が決まり追い出されて終わり。動物たちは花山町の野山や各家庭にかえされておしまいおしまい。

で、どこがウェルメイドなテイストかというと、概して「静か」なのです。
この巻ではとくに事件も起こりません。明かされるべき謎とか発見されるべき宝とか解決されるべき争いといった、物語の持続を担うようなものがないのです。それだけではありません。ストーリーのなだらかさに照応するように、登場する子供たちも静かなのです。口数も少なく、また話すときも穏やかなやりとりばかりです。この「静かな子供たち」の姿が、たいへん懐かしく思えました。それはべつに、昔の、派手な展開を避けた児童書らしさを久しぶりに見たからだけではありません。大人よりも子供の方がしばしば静かなのだという事実を思い出して懐かしかったのです。

子供がギャーギャーうるさいのは、教室とか新幹線の中とか、空間や風景が限られた場所に於いてだけです。誰でも経験があるはずですが、本来子供は、四六時中周囲に心を奪われ言葉を失っているものです。
この巻では、ほとんどの場面が、子供たちが互いに向かい合わず、輪になって中心を眺めているという構図になっています。中心にあるのは、統御しきれない物言わぬ動物たちです。この構図が、子供の頃によくあった、穏やかさと充実が並存する時間を想起させてくれます。みんなと一緒にいるのに、互いではなく共に別の何かに夢中になってるような、決して一人ではないと確信しつつも一緒にいる子にはまったく配慮がない、こんなふうだったなあと微笑ましくなりました。

そして、非生産的な言辞やストレスというのは、相手の顔しか見てはいけない場で発生するのだという事実にも、同時に思いあたったのです。
相手の顔ではない何かに目を奪われ言葉が追いつかない状態を共有するような会話。こういうのはもう大人には経験しにくいものです。ストレスだらけもむべなるかな。
相手を見ないで話すといっても、ダラっとテレビを観ながら「この女優って離婚したんだよね」などと話すのは違います。怠惰を共有しても忘我の境は遠いままです。
目は奪われたまま、適当な言葉は出てこず、間に合わせの片言と生唾を飲む音だけが交わされるような場。悪友の家で成人ビデオを何人かで鑑賞したのが最後、という人が多いと思います。大人になっても経験してる人なんて、敵国の報道番組を見ている国家元首と補佐官、くらいしかイメージできません。
そう考えてくると、巷間よくあるような、思わせぶりな空虚が「癒し」を自称するのは嘘ですね。「相手の顔」から人を解放するのは、複数の意識を同時に捕らえて放さない過剰な何かしかないはずです。また、対人関係がストレスの元だとしても、お人形を相手に会話したり性交渉をしたりする人がいるそうですが、それも違います。そういうのは仮構された孤独か余裕ある擬人化によるのであって、たいした充実は得られないはずです。

一人ではなく、だけど互いではない何かに心を奪われその濃密な境地を共有する、そういう機会にかつて恵まれていたことを、動物を囲むハチベエらを通じて思い出し、その貴重さを再認しました。ストレスの元にならない「ウザくない他人」というのは、薄味の人格ではなく、共に意識をさらわれるような濃い環境によって成立するものだと、今さら思い出したわけです。
……とまあ、世知辛いこの年の瀬にこうやってグダグダ考えるくらいしか大人にはできないもんだろうかと、グダグダしてしまいました。で、大人にも何か、他の大人と共に思いがけず存在を賭けてしまうような、過剰な予測不可能性といったものはないもんだろうかと考えていたのですが、ありました。子供です。

来年も世界中でいい子がたくさん誕生しますように。

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2008年12月12日 (金)

ズ31 ズッコケ発明狂時代

Back31 第31巻。95年7月刊です。
「発明」です。「ハカセ」が出てくるシリーズなのに、これまでなかったことが不思議なテーマです。
子供の夢の定番といってもいいでしょう。発明に必要なのは独創性だけではありません。発明が新しい時代をつくるのだとすれば、先行世代とは別の時間を生きたいという自立心も大切なのです。まさに子供にぴったり。熱いお話にちがいありません。

もちろん主役はハカセだと誰でもわかると思います。おっちょこちょい(ハチベエ)とのろま(モーちゃん)は、コミカルな助手の役がお似合いです。論理的で堅実なハカセのことなので、発明されるのは、奇を衒わない、日常生活に有用な品でしょう。ハカセなら必ず発明を成就するに違いありません。豊富な読書と思索によって培われた粘り強さがついに実を結ぶわけです。派手さはなくとも、花よりも実といった感の利器です。ハカセの偉大さに気づかぬままだった、花山第二小の凡俗な諸子が受ける恩恵も大。優れた技術者や真の芸術家のイメージ通り、世間的な名声には頓着しないハカセでしょうが、天才発明家の誕生を周囲が放っておくはずがありません。お調子者のハチベエの宣伝もあって、ハカセの発明品は賞賛をもって迎えられるはずです。
読者にも、子供のアイデアと創意とが、世界の風景を変えうるということが示されます。
ラストシーン。研究室の机からふと上げられたハカセの顔には満足の微笑が浮かび、その目の先には皆と同じ、新しく拓かれた地平が写っていることでしょう。

……とまあ、読む前からこの程度の流れが予想できてしまうタイトルと表紙だったのですが、なんとまったくのハズレでした。
始まりは生来の好奇心でも創意でもありません。発明のモチベーションは金(マネー)です。研究の秘訣ではなく、特許取得やロイヤリティ成金への道が語られます。
ハカセの目標は「永久機関」の完成です。自分と同じ小学生や団地住まいの家族の生活とはまったくリンクしません。山師そのもの。
残りの二人は、助手ではなく独立した発明家です。しかもこの二人の方が発明を完成させてしまいます。といっても、ラジオ付き雨傘と目覚まし時計付き枕……特許どころかかろうじて夏休みの工作として通用するレベル。
ところが、三人の発明とは別に、時代を画する驚異の新製品が誕生します。なんと何日か先の未来が映るテレビです。子供らしい奇抜なアイデアによるものではありません。壊れかけたテレビに偶然カミナリが落ちた結果です。
この未来テレビですが、アイドル歌手の結婚を誰よりも早く知って得意になること以外に、ハチベエらはもうひとつの有効利用を思いつきます。…またもや金(カネ)です。現実よりも先に、未来の競馬中継を観て結果を知ろうというわけです。
ラストシーン。子供たちの輝く瞳の先にあるのは、秋のGⅠ菊花賞の出走です。……

このように、まったく予想外の展開を見せるこの巻ですが、このハズれ方はなんなのでしょう。きっと何か大切な意味、隠された作者の意図があるはずだと考える読者も多いでしょう。
「発明などという山っ気のあることではなく夏休みの研究は教科に準じたことをやれ」というメッセージでしょうか。あるいは、「モノの仕組み」が集積回路の中に閉ざされてしまった現代における発明の不可能性が主題なのだと思いつく人もいるでしょう。
どちらも違います。

隠された意図――それは、不正読書感想文への罠です。
夏休みに一冊の本も読まずに宿題の読書感想文を書き飛ばして提出するだめな子が世の中にはゴマンといます。こういう子をひっかけるのが真の意図なのです。「僕もハカセのようにいろいろ発明してみんなを喜ばせたいと思いました…」こんなことを書いてきた子の不正を一目で判別できるようになっているのです。
暴かれるのは不正だけではありません。悪意や怠惰に見合わない無防備さ、「楽がしたけりゃ知恵を出せ。面倒が嫌なら頭を使え」という真理すら心得ていない子供の実情です。
こんな罠にかかるような子では将来が心配です。
まじめな読書習慣か、それが嫌なら単純な罠にはかからない策略を身につけるべきなのです。

実作者らしい手厳しい罠でしたが、僕からは有用なアドバイスを。今の父親よりも上の世代から繰り返されてきた伝統的手法です。代々伝えられてきたのではなく、常に一定数の子が独自に思いつき試みられてきた読書感想文速成術です。
まず、どんなに面倒でも、その十ページ余りだけは読んでおく必要があります。中学も含めた数年間を通じてこの十数ページを一度読むだけでいいのです。
で、「メロスの美しい心に感動しました。友情ってすばらしいと思いました」…毎年こう書いときゃいいんです。何度目かの夏にはもう自動筆記状態。「今年もメロスでチャッチャと済ます」ってなもんです。
ご存知でしたか?桜桃の人は、思春期の自意識を刺激するだけではなく、怠け者の子に格好の紋切型を供し続けているのです。どの文学書にも言及されていません。これもまた、ダメな子たちのささやかな「発明」なのです。

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2008年11月 6日 (木)

ズ30 ズッコケ三人組と学校の怪談

Back30第30巻。94年12月刊です。
サザエさんの最終回の話をご存知ですか?「学校の怪談」ものブームの五年くらい前に広まったうわさです。当時、いろんな「うわさ話」が流行し、僕はたいへん興奮したものです。磯野カツオ氏が回遊魚になる話や新元号ネタくらいは誰でも一度は耳にしたはずです。インターネットがない時代で、「多く語られているけどマスにはのらない話」がまだ神秘的でありえたのです。個々のうわさ話だけでなく、フォークロアだの都市の常民だのといった語がとても刺激的でした。女子高生の朝シャンは現代の禊の儀式であるなんて話に驚き、マーケティング戦略には民俗的心象への理解が不可欠だという記事を読めばそんなもんかと感心していました。
そんな時代のあと数年して勃興したのが「学校の怪談」ブームなのですが、僕にはずいぶんと雑に見えました。子供相手とはいえいくらなんでも大味すぎるだろう、と。深夜の学校でピアノが鳴り音楽家の目がギョロリと動き標本ガイコツが踊るくらいことは、ずっと昔からあったことで、それ自体は他愛もないことなのです。大切なのは語られ方なのに、「商品」の前面化のせいで、「虚実のあわいに託される古くもありアクチュアルでもある集合的無意識」というような味わいがほとんどないように感じていたのです。
といっても、渋谷の映画館まで観に行ったんですが。

で、この巻です。おそらくブームの最中の刊行です。ズッコケまであんなブームにのらなくてもよかったんじゃないかというのが最初の印象でした。
ところがどっこい、さすがズッコケ。ただの便乗ではありませんでした。この巻は、巷間あふれる「学校の怪談」ものを挑発しています。これくらいヒネリを入れたらどうか、と言っているのです。5巻のところで書いたことですが、本来オカルト世界というのはコマーシャリズムから人を解放する点でも有用なのです。それでも尚「商品」としてその世界に参入しようとするなら、この程度の慎みと水準は備えておくべきなのだ、と、児童書の王として範を垂れているかのようです。現実の子供たちのうわさ話に深みを与えていくヒネリがなくてどうする、というわけです。
どのようなヒネリかというと、べつにトイレに出没するのが薄倖少女ハナコではなく禿男の化け物ということだけではありません。物語の説話構造からしてヒネられています。
学校の怪談ものの最も単純な基本パターンは、誰かがうわさを聞いてみんなに話す→みんな怖がったり否定したり→確かめるべく探検→本当にお化けが出る→ギャーと驚く→ピンチ→なんとか生還めでたし、というもので、子供をなめてる手合いによるこのパターン通りの商品がいくらもあったはずです。お化けの種類や探検メンバーの人数と男女比をいじればバリエーションをとれるとでも考えていたのでしょう。こんなものでは刹那的にビビらせることはできても、実際に独自の怪談を紡いでいこうという気にはさせられません。
この巻は、この安易なパターンに挑んでいるわけです。まるで実験小説の入門をも意図されているかのようです。といっても、極端に実験的なことはしません。ありきたりな構造を避けるといっても、シュールレアリスムやヌーヴォーなんとかのように凝りすぎると、子供にとってうわさ話を語りだす叩き台にも手本にもならないのです。
採られているヒネリは「二重化」です。これによって固定的だった構造が流動化され、生産的な土台になるのです。
お話は、花山第二小学校には「学校の七不思議」がないと嘆くハチベエに、「だったら自分たちで作ってしまおう」とハカセが提案するところから始まります。ないなら作ってそっと流布させればいいというわけです。いずれにしろ幽霊なんかでっちあげなんだからと、ハカセは言います。そうして、三人組にうわさ好きな女の子らも入れた十人で七不思議制定委員会が発足し、それぞれがアイデアを出し合って八つの不思議ができあがります。つまり、このお話では、怪談やうわさは予めあるものではなく、主人公らによって捏造されるものなのです。古来よりどの国でも起源の隠蔽が神話の始まりであることを考えれば、このあからさまな起源の提示は、読者を拍子抜けさせてしまいかねません。
ここで一つ目の二重化が導入されます。なんと、作られた不思議を風にのせようとする頃、いきなり本当に捏造話通りの不思議に遭遇してしまう子が出てきたのです。一年の男子がトイレで禿じいさんの怪物を、六年の女子が校舎の階段をボールのように落ちてくる人の首を目撃してしまうのです。どちらも、十人のメンバーが思いつきで作った八不思議の通りです。そして、ハチベエら自身も、給食が一人分消えてしまうという怪現象を体験してしまいます。これは、モーちゃんが考案した給食室のお化けそのままです。
つまりここで、「花山第二小の八不思議」は、意図的にでっちあげられた非神話的虚構であると同時に、実際に誰かが体験した事実でもあるということになるのです。これが二重化です。
さらにもう一つ。作られて間もない八不思議とまったく同じうわさが、何十年も前の花山第二小学校でも語られていたことが、ハチベエの父である八百屋店主の証言によって判明するのです。現代の法螺であると同時に、歴史的な口承伝説でもある…これもまた「偶然」ではなく「二重化」の主題です。
ちょっと複雑ですが、この複雑さがそのまま、潜在的なうわさの語り手でもある小学生読者に対し、うわさ話の肥沃な土壌についてのヒントを示すことにもなっているのです。ありきたりのお話では、ちょっと勘のいい子なら目先の多様さに惑わされず、すぐに構造的単調さに気づき飽きてしまいます。でも、そういう子が能力を発揮しないと、その学校ではろくなうわさが語られないのです。
つまりこの巻は、全国の学校のうわさ畑に撒かれる肥料となるものなのです。それは、珍しくもあり、同時に「学校の怪談」本としてはごく正当な役割でもあります。すごいなズッコケ。
ネタバレはしませんが、複雑さの一方で、映画ばりのアクションシーンもきっちり盛り込む余裕も見せています。まさにズッコケの底力を見た思いのする一冊でした。

最後に。
欲をいえば、あとひとつ、ズッコケ作者にしかできないことが試されているとよかった。
それは、ズッコケ自体がひとつのうわさの主題たろうとする試みです。例えば、図書係の子がズッコケを棚に片付けるときに、「ズッコケつまんない」とつぶやくと、その夜、月明かりに照らされた無人の図書室で、いきおいよく宙に舞うズッコケ23巻24巻が、ぶつかり合って戦争を始めるというものです。「そういう秘密の力を文章の中に呪文のように埋め込んでおいた」と一言書いてあればよかったのです。
後は、全国の子が尾ヒレをつけていくはずです。
翌朝二冊の本がぼろぼろになって床に弊れているのを教頭先生が発見したらしい、とか。
破れたページにやさしく手を添えるようにして、両巻の間に『よい子の伝記ナイチンゲール』がいっしょにあったとか。
学校の怪談とは、本来そういうものなんです。

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2008年10月28日 (火)

ズ29 ズッコケ三人組のミステリーツアー

Back29 第29巻。94年7月刊です。
オカルトものではなく事件ものです。ミステリーツアーといっても南海の孤島や廃墟には行きません。二泊三日のバス旅行です。

バスツアーといえば、テレビの二時間サスペンスドラマで僕が唯一好きな設定です。 「お見合いツアー殺人事件」やらの、あれです。バスツアーものには、どこか楽天的な雰囲気があります。しょうらい、テレビから一切の暴力や殺人シーンが禁止されることがあっても、バスツアーものだけは例外扱いされるのではと思うほど、深刻さを寄せつけない何かがあります。

で、この巻のお話。元々はハチベエの一家が市内の旅行会社から無料招待されたツアーだったのを、ハチベエの両親が酢蛸にあたったため、三人組で参加することになります。このツアーは、あらかじめ行き先が知らされない、福袋のような旅行なのです。客はすべて主催旅行社のツアーを利用したことがある人の中から無料で招待された老若男女、小さなバス一台、十五人の旅です。
お話が動き出すのは、初日の宿に到着した頃です。ツアー客の全員が、山口県長門のそのホテルに憶えがあることがわかります。なんと、今回招待された客はどうやら無作為に選ばれたのではなく、十年前に同じ行程のツアーに参加したメンバーだったのです。一歳のハチベエも両親と参加していたわけです。もちろん、ただの旅ではありません。ある事故が参加者の誰もに苦い思い出を残したツアーだったのです。事の成り行きに驚き戸惑う客たち。記憶のないハチベエと連れの二人を除いた全参加者の胸に、十年前の惨劇の記憶がよみがえります。今回の旅を仕組んだのは誰なのか。またその目的は…。そして、ついに起る新たな事件。それはまるで十年前のできごとを再現するかのようで……。
…というお話です。サスペンスドラマをよく見る人には既視感いっぱいでしょう。

そもそも二時間ドラマのバスツアーものの楽天さの由来は、バス旅行を供にするメンバー構成の、浮世離れした多彩さにあります。例えば、お見合いツアーなのに徹底的に無愛想なコワ面がいたりします。生涯の伴侶と出会うためではなく、最初に犯人として疑われるために参加しているような人です。逆に、裏読みしたときに真犯人と目されるのにちょうどいい、これでもかというほどオドオドして大人しい好人物もいます。結婚相手など選び放題のような美人もいれば、顔に「ワケありなんです」と大書したままの人も。かなり限定的な目的のツアーなのに、同じような人はひとりもいません。各系統キャラの代表選手を集めたような構成なのです。
この巻のお話も同様で、バスには三人組のように子供もいれば、女学校の同級生という老女二人連れも乗っています。元中学校校長のおじいさんから、ガラの悪いやんちゃな夫婦もいます。添乗する旅行会社の社員は、若くて明るいけど何か秘密を隠したような影が見えます。
そんなメンバーに囲まれ、三人組は霞んでしまいます。ハカセやモーちゃんだけでなく小さすぎて記憶のないハチベエも十年前のことに縁がないという事情もあります。また、25巻で書いたような、ストーリー重視による三人組の前景からの後退という現象でもあるのですが、それだけではないようです。この巻で三人組が今ひとつ目立たないのは、二時間サスペンスの世界と小学生の不釣合いのせいでもあるのです。だらしない生活をした人ならわかると思いますが、二時間サスペンスドラマは夜九時ではなく昼の二時から見るものであり、小学生はまだ学校にいる時間なのです。
二時間サスペンスの世界にあって、三人組の少年に与えられたポジションが脇の方になるのも仕方がありません。事件解決に際しハチベエが多少の殊勲をたてますが、捜査の主導は警察でした。事件ものでは光るはずのハカセの推理も、雑多が醸す楽天さの中では半端なままです。モーは旅館で食ってばかりでした。

つまりこの巻は、小学生読者諸君に「平日のお昼」を垣間見せてくれるお話だと言えます。受け取られるのは「アクシデントに胸躍るバスツアー」的雰囲気ではなく、あくまで「平日のお昼」的気分です。ある子にとっては、あの欠席した日の午後の、異次元のような不思議な時間を反芻するのに役立つでしょう。
そう考えると、二時間サスペンスとズッコケの接触という、なかなか興味深い巻でした。バスツアーという最高の舞台が出てきたことも心憎い。視聴者はもちろん、ツアー客もバス運転手も、製作者も放送スタッフも、おそらくCM提供者まで、最初から誰一人としてお見合いの成就に関心のないそのお見合いツアーを包む清々しい軽さを、意外なところで思い出せました。

日中忙しくしている方は、ぜひどうぞ。
最後に。ネタバレはしませんが、長門で起る事件の背景原因展開捜査推理解決のいずれにも酢蛸は無関係であることくらいはヒントとして書き留めておくことにします。

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2008年10月18日 (土)

ズ28 参上!ズッコケ忍者軍団

Back28 第28巻。93年12月刊です。
タイトルには「忍者」とありますが、おおよそ忍者のイメージとは遠いお話です。華麗なる忍術も、忍びの家に伝わる秘技も出てきません。
ただ、全編バイオレンス一色です。しかも清々しさのまったくない、いやあな気にさせるバイオレンスです。

ときは夏休み。お話の舞台は、花山町の奥の、人家もなくただクヌギの木が密集する八幡谷です。ここは、代々花山第二小学校の子供らにだけ伝えられるカブトムシの採集地なのです。この谷で、モーちゃんの後輩の五年生二人が「ドラゴン部隊」を名乗る集団に「スパイ容疑」により一時拘束され暴行を受けるところから始まります。
ドラゴン部隊とは、主に隣の花山第一小学校の子らで構成される武装集団で、八幡谷に秘密基地を構え、エアガンを装備しトランシーバーで互いに連絡をとりながら谷の全域を占拠しているのです。
暴行事件を聞いた三人組がとりあえず視察のために谷に行くも、武装兵に囲まれてしまいます。その後、組織のリーダーである中学生とも話し合いが決裂。ここにドラゴン部隊と第二小軍団という両セクトの闘争勃発が決定的になります。
ハチベエはさっそく片端から電話をかけ仲間(同志ともいう)を募り(オルグともいう)、すぐに三人組を含む十三人で構成される「タイガー部隊」を結成します。来る戦闘に備え、装甲車や投石器や爆弾などの製作がすすめられます。ちなみに、これらの武器ですが、ドラゴン部隊と同じく「微笑ましい子供のおもちゃ」の域を軽く超えています。武器開発や作戦会議の場に抑制を効かせるのは予算しかないという事実が子供にもよくわかるようになっています。
で、とうとう第一次全面衝突の日がやって来ました。…惨敗です。ハチベエ率いるタイガー部隊は壊滅。あろうことか、ハカセとモーちゃんが捕虜になってしまうのです。
そして、ここがこの巻最大の衝撃シーンなのですが、この虜囚二人、なんと丸裸で解放されるのです。児童書とは思えない陰惨さです。縛りつけて人質にするとか、射撃訓練の的にするとか、ひどくてもその程度かと思ってたところにこの陵辱。子供は怖くないのでしょうか?性的辱しめを受けたハカセのお尻の絵は、見る者の心を鉛色に曇らせるはずです。
好戦的な集団、人里はなれた山中でのキャンプ、軍事演習、敵対集団との闘争、ときてこの私刑ですから、非ズッコケ的な何かを連想させられそうにもなります。お話としては、ここはまだ捲土重来を期した第二次全面衝突というクライマックスを控えたところなのですが、もう何のお話なのかわからなくなってきます。ここで第三勢力として教師軍団が登場し、放水車や巨大鉄球による制圧を敢行しても不思議ではない雰囲気でした。

…このように、狂気を秘めたようなバイオレンスに終始する巻です。前巻で暴力に対する構えやその軽やかないなし方を描き、多くの小学生に平和な渡世のヒントを与えたはずのズッコケが、すぐ次巻でこれです。まったく意図の解せない巻でした。

残念です。暴力性を回避できそうな主題はいくつかあったのです。
例えば、ドラゴン部隊のリーダー。彼は大人の目につかないところで小学生を従え、武闘訓練の指揮だけではなく勉強も教えたりする、ちょっと陰湿な中学生なのですが、歳下の子としか遊ばない子というのは、いくらでも深められるキャラだったと思います。
もう一つはカップラーメンです。タイガー部隊の兵士たちが、テントの中で昼食としてカップラーメンを食べる場面があるのです。
あまり言われないことですが、初めての屋外カップラーメンというのは、人生の美味ベスト10に確実に入るほどの貴重な体験なのです。ちょうどガキんちょから生意気なお年頃になる頃のことです。駄菓子ほど子供くさくなく、お弁当のように母親を感じさせず、ちょっとだけ不良の香りがする、そういうカップラーメンは、小さい頃にも大人になってからも味わうことができないものです。小学五年では早すぎ、高校生では手遅れです。僕は、公園の高い遊具の上で盆踊りを見おろしながら食べました。親に隠れて水筒に入れてきたお湯で作ったのです。
こういうカップラーメンへの誘いがもっと語られてもよかった。初煙草を経験する機会を持たなくなっていくご時勢ですから、初カップラーメンの重要度は昔より増しているはずです。女の子に縁のない男にも青春の輝かしい味があるということを体験的に知ることの意味ははかりしれません。また、この輝かしいカップラーメンの記憶を持つ人は、自分の子供にも体験させるため、子供がその日を迎えるまではコンビニ弁当などからできるだけ遠ざけ、食=メイドイン自宅台所という観念を徹底して植えつけさせようとするはずです。食育がどうたらは知りません。すべては初屋外カップラーメンを際立たせるためです。
このように人生を豊かにし次世代にもよい影響を及ぼすカップラーメンの主題をズッコケが見落としたことは残念でなりません。組織暴力の盲目性を見た思いです。

最後に。
で、どこが忍者なのか?という疑問もおありでしょう。「忍者」らしさは、タイガー部隊の兵士につけられた名前に登場します。
曰く、伊賀の小猿、根来の三吉、風間正太郎、つぶての浩司…陽炎、胡蝶、夕霧という名前もあります。これだけです。他には忍者のにの字も窺がえません。
そりゃ『われらがズッコケ山岳闘争』とか『ズッコケ花山砦攻防戦』なんてタイトルをつけられないだろうとは思いますが、忍者ファンの子はがっかりしたことでしょう。『にんじゃのひみつ』のような内容を期待していた子が不憫ですね。これからの方は、水面を歩ける板の作り方や木の芽を飛んでジャンプ力をつける方法などは書いてないことを承知のうえで読まれるといいと思います。

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2008年7月24日 (木)

ズ27 ズッコケ三人組の大運動会

Back27第27巻。93年7月刊です。

運動会のお話です。
ここしばらくの傾向から、フォークダンスをめぐり男女がもめるとか、調子づいたハチベエがクラスの女子から総スカンをくらう話を想像しがちですが、全くちがいます。
謎のアスリート仮面も登場しません。
久しぶりの、男しか登場しない巻なのです。男同士の心の葛藤、友情、そして兄弟愛が主題でした。

お話は、運動会を二ヵ月後に控えた夏休みに、銀行員の宮下さん一家が花山町に引っ越してきたところから始まります。この宮下家の二人の子、中学生と小六の兄弟が、そろって俊足なのです。一方、ハチベエも毎年徒競争でトップをとっており、密かにオリンピックも夢見ているほど足に自信を持っています。
学校が始まり、宮下弟とハチベエが運命のライバルのように出会います。グラウンドを並んで走ったうえに、宮下弟が中学校で陸上をしている宮下兄と毎日特訓をしていることを知ったハチベエは、小学校最後の運動会に危機感を募らせます。モーちゃんとハカセをつれて宮下兄弟の早朝特訓を偵察するハチベエ。しかし、これが揉め事のきっかけになってしまいます。宮下弟は、三人をスパイだと思い込んだのです。何者かの依頼によって中体連の大会に出る兄の様子を探っていたのだという誤解です。
怒りに燃えた宮下弟はついにモーちゃんを殴打。ハチベエよりもハカセがこれに憤慨するのですが、悪いことが重なります。組み体操の練習中、崩れ落ちる事故で宮下弟が入院するほどの怪我をしてしまうのです。宮下弟はハカセが故意に組み体操の山を崩したと誤解してさらに怒りを増す始末。
ここで宮下兄が、弟の、兄を慕いすぎる故の思い込みと、それが招いた摩擦を知ります。弟が入院するなか、三人組のコーチ買ってでる宮下兄。運動会断念のみならず兄の行動にもショックを受ける弟。次第にあきらかになる兄弟の歴史、そして運動会の当日……
こういう展開です。兄弟の関係、転校生としての気負い、スポーツ自慢のせめぎ合い……いろいろつまっています。

と、宮下兄弟とハチベエらがメインストリームなのですが、一方でハカセが裏主役ともいえる鈍い光を放っています。まるで運動が苦手な読者にとって、「体育」的なものや運動会との関わり方を示唆しているようです。卑屈にならず、かといって無理に気張りすぎず。苦手なものもマイペースで当たる姿勢は、運動会を控えた子に大いに参考になるでしょう。また、すぐに人を殴る乱暴者から理不尽な恨みを持たれたときの振る舞いも魅力的です。気の小さい子にとっては一生忘れないほどの印象を残すかもしれません。ただホンワカと開き直っているモーちゃんには示せない姿勢です。

さらにもう一つ、この巻には珍しい利用価値もあります。
宮下兄が三人組をコーチする場面が、そのまま徒競争上達法として読めるのです。かなり実践的で有効なコツがいくつも出てきます。運動会での活躍を狙う子らにはなによりの指導書にもなることでしょう。ここで示されることに気をつけて練習すれば数段のレベルアップが期待できます。なんせハカセですら二等、万年最下位のモーちゃんが三等になれたのです。走者が片っ端からこけるというハプニングもあったのですが。

最後に。知将ハカセが考案した騎馬戦必勝法を紹介します。
その1。特殊な帽子を用いる。つばの部分だけを厚紙にしてひっぱられるとそこだけ取れるようにする。
その2。帽子にビニールで透明なアゴヒモをつけて脱げにくくする。
以上。
ハカセよ……。

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2008年7月20日 (日)

ズ26 ズッコケ三人組対怪盗X

Back26第26巻。92年12月刊です。

ちょうど全巻の折り返しにあたる巻ですが、絵の描き手が変わっています。
お亡くなりになったそうです。……

小学生、とくに読書習慣がしっかりとしていない子は、たいてい表紙やペラペラとめくって見た絵で、読む本を決めます。理解を助けるだけでなく筋を追う気をを奮わせるのも、挿絵です。誰でも、お話の中身は忘れても表紙だけは憶えている本がいくつもあるでしょう。ポッペン先生とかマガーク探偵とか、僕は絵しか憶えていません。本当に、小学生の読む本にとって、画のウェイトはかなりの割合だと思うのです。
このズッコケもしかり。氏の絵がいったい何百万人の心の中で、ズッコケのズッコケ性を印象づけ定着させたことでしょう。改めて本を開かなくてもすぐに思い浮かべられる挿絵がいくつもあります。僕はとくに、各章の始めにある小さなカットが大好きでした。そればかりを編んだ画集が出版されてもいいくらい味のある絵です。
ズッコケシリーズにとっては大打撃だったことでしょう。当時の状況やシリーズ続行をめぐる経緯や裏話など知りもしないし調べる気もないのですが、この巻以降は「原画」としてクレジットされていくことになった、その初代ズッコケ絵師の偉大さは、多くの元小学生と同じく僕も理解するところです。悼。

お話の内容に入ります。
前巻で、ズッコケは大胆な転換=エンタメ化を敢行したと書きましたが、いきなり大きくでました。「怪盗X(エックス)」だそうです。
ただの怪盗ではありません。前半部で実際に言及があるのですが、「怪人二十面相」のキャラクターをそのまま踏襲したような怪盗なのです。大物が登場しました。ある意味、あの古典シリーズ(もちろんエログロ乱歩ではなく学校図書室にある方の乱歩)への挑戦とも受けとれます。新生ズッコケへの意気込みを感じさせるキャラといえるでしょう。
さしずめ三人組が小林少年の役回りということになります。
お話は、日本中を騒がせている怪盗X(エックス)が、ミドリ市に現れるというものです。花山第二小の四年生の女の子の家にある国宝級の茶器に狙いをつけるわけです。
ネタバレは避けますが、乱歩シリーズが苦手な子にも二十面相のおもしろさが味わえるような、オトクなお話でした。
怪盗Xが、誰もが知る怪人二十面相の三大特徴をきっちり備えているのです。
その1、人を殺傷しない。基本的に怪盗は紳士なのです。怪盗と探偵は知恵比べをするわけで、ゲームは知的で華麗に遂行されなければいけません。
その2、変装しまくり。顎の下に手をやってベリッと剥がすあれです。怪盗の素顔を知るものはいません。変幻自在は怪盗の嗜みのようなものです。
その3、逮捕されてもすぐ逃げる。古今東西、怪盗はしばしば逮捕されます。でもすぐに逃げるのです。奇術師のように手錠をはずすとか、予め仕込んでおいた装備で空を飛ぶとか、よくある場面です。
そうです。怪盗Xも逃げるのです。
なんとこの怪盗、シリーズになってこれからもたびたび登場するらしいです。
「諸君、また会おうフハハハハ」ってなもんです。また会いましょう。

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2008年5月31日 (土)

ズ25 ズッコケ三人組の未来報告

Back25第25巻。92年8月刊です。

未来のお話です。
時は二〇XX年、三人組は三十二歳です。
小学校を卒業してから二十年、三人ともそれなりに社会に出て活躍しており、はじめてのクラス会が行われます。しかし、会で開封される予定だったタイムカプセルが、何者かによって盗まれてしまいます。折りしも、国籍年齢等一切が謎の当代一の世界的スター、ジョン・スパイダーの初来日公演が間近に控えていました。スパイダーが長らく拒んできたのを翻意し、待望の来日が実現することになったのですが、東京や大阪ではなくなんとミドリ市で公演を行うのです。カプセルは会の直前に返されますが、ある人物の記念品だけが取られています。現在では高価値のついた「カラテマンゴールドカード」ではなく、なぜそんなものが抜き取られたのか。犯人は誰なのか。そしてスパイダーはなぜミドリ市に来るのか。……未来を舞台にした大掛かりなお話です。
書き忘れましたが、このお話は夢オチで終わります。全部夢でした、ということです。オチというより、最初から読者にはほとんどわかるように書かれています。モーちゃんがヨーロッパでホテルマンの修行をし、フランス人女性ジャクリーヌ(美人)さんと結婚しているなんて、まあ、夢としか思えません。

で、歳をとった未来の三人組といえば、このブログのゴールである『中年三人組』です。そのシリーズ完結作を予め模倣したかのようなこの第25巻なのですが、かなり大きな作風の変化が起こっています。何かが吹っ切れたような感があるのです。シリーズ全体を通して見た場合、この巻は大きな転換点を示すことになるでしょう。
おそらくこの頃に、ここをシリーズの中間とすること、すなわちここで折り返してこれまでと同じくらいのお話が作られることが決まったような気がします。あと二十巻あまり続くことを見越したうえでの変化が見られるのです。
三人組のキャラクターが後退し外部が前景化してきました。
三人組・出来事・外部キャラの三者のうち、後の二者がずっと前にせり出してきたのです。三者は等価になったか、あるいは逆転しているかもしれません。主である事件に対して三人組が従の関係をとっているように見えるのです。
これまではどんな事件が起ころうとあくまで三人組の世界が前提でしたが、その巻かぎりの現場と事件と登場人物が先行し、そこに三人組がいるという形に転じてきたのです。三人組があいかわらず三人組らしくあることを確認するために本を開く読者ではなく、ストーリーの行方を追う楽しみを欲する読者に向けられているかのようです。
エンターテイメント性が強くなったとか、筋立てが派手になったと感じる人もいると思います。シリーズが固定して続くようになれば、敵役の方に焦点が移りバラエティを増すことは、宇宙怪獣やジオン軍にも見られる通例ですが、これを同様のマンネリ回避策といってはミもフタもないでしょう。三人組が、誕生時には想定されていなかった時間と世界を生きはじめているということだと思います。短い半ズボンの小学生はもう絶滅しており、何らかの転換は必要だったはずなのです。坂本金八氏が長髪を切り体重を増やした時期を考えれば、ここまでよくもったものです。

今後は、ドラえもんの七巻以降を読むような、コメカミが打てなくなってからの矢吹ジョーを見るときのような気分になることでしょう。本当にこの巻までしか未だ読んでないのであてずっぽうなのですが、たぶん、ズッコケは変わりました。21巻で言及した変化よりずっと腹のすわった変化です。この巻を読みながら薄々と感じ、次巻のタイトルを知って確信しました。七十年代末に誕生し八十年代初頭に花開いた三人組が、九十年代に適応していく様を、これから追体験していくわけです。いつまでも過去のテイストに拘泥するなと、ジャクリーヌ(美人)さんが言ってるようでした。

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2008年5月21日 (水)

ズ24 夢のズッコケ修学旅行

Back24第24巻。91年12月刊。

修学旅行のお話です。
卒業文集の「一番の思い出」採用率ナンバー1の修学旅行です。
花山第二小の六年生が山陰の隣県に一泊旅行をします。学校からバスで出発し、あれこれ見学して帰ってきます。他校の子と揉めたり映画撮影に出くわしたりしますが、特に大きな事件も起こりません。
端的に言って、内容の薄いお話でした。

とはいえ、それは必ずしも、このブログの更新が妙に開いたように、二十数巻続けてきた作者の気がダレたということではないはずです。よく考えればいくつも理由が思い当たりますが、修学旅行のお話がおもしろいわけがないのです。
理由その一。この本の読者のほとんどは、これから修学旅行を経験することになる子たちです。波瀾万丈、めくるめく事件が展開するお話では持て余してしまう危険があるのです。既巻にあるタイムスリップやお化けや殺人事件には、日常を多様な可能性の感覚で満たす効果がありますが、一度きりでしかもスケジュールぎっちりの一泊旅行では、読者諸君もお話をトレースしようがありません。というわけで、理由その一は、期待を煽りすぎずしかし現実を卑下させないという配慮の結果ということです。
理由その二。そもそも修学旅行なるものじたいがつまらないという事実。これです。
日常を外れて舞台を変えないとドラマが生起しないのは、大人だけです。子供なんてちょっとした刺激で即時に妄想が発動するので、環境を変化させる必要はないのです。だいいちがっちり拘束されて動くだけの旅行に非日常の躍動なんかありません。バスから見る旅先の夕暮れより、体育倉庫の裏の壁に射す赤い陽の方がずっと心に沁みます。つまり、修学旅行とは小学校生活において最も期待はずれでアンチドラマな行事なのです。バスの最前席で担任と学級委員がこそこそ話してる姿が象徴する、そんな退屈さです。
理由その三。卒業文集に修学旅行ネタを書く気を阻喪するねらい。修学旅行ネタが日本中の卒業文集を無味乾燥にし続けている現実を憂うゆえ、ということです。
「小学校時代の思い出」としてまず修学旅行を挙げる大人はいません。記憶に残るのは、日常の間にあった、固定しがたいいくつもの情景ばかりです。
でも、そんなものを子供が書けるはずはないのです。箒でジャストミートされた雑巾が、吸い込まれるように窓の外に飛び出す瞬間の、時間が停止したように窓枠の中央でちょうど放物線の頂点を迎えた逆光の形……そんなもの、小学生は毎日味わっていても一文字も表現できないはずで、仕方がなく修学旅行ネタでお茶を濁す子が出てきます。そういった事情に加えて「卒業文集らしさ」という制度上の要求に従った結果が、「退屈なイベントのくせに卒業文集採用率一位」なのです。
たしかに、情景を顕彰するのは、日本では老成しないとしてはいけないことになっています。病床についた六尺の歌人とか、電車にぶつかった傷を癒しに城崎温泉に行って川原を散歩してイモリを見たお爺さんとか、そういう人じゃないとサマにならないわけで、子供には無理なんです。でも、少なくとも修学旅行ネタを避けることくらいはできるだろう、その程度には退屈さを忌避する気概を持ちなさい、という諭しの効果が期待されているのです。

とまあ、こうやって理由をでっちあげてみると、お話の薄さもそれなりに意味のあることに思えてきます。お話の薄さはそのまま他の主題への誘いであり、修学旅行の記憶の薄さは、そのまま小学校生活の充実の度合いなのです。

卒業文集を見てみるとわかると思いますが、味のある文章を書く非凡な子ほど、小さいネタを選んでるはずです。そういう子は少数だけど確実にいます。大人になって何度も読める、文字通りの「記念」を残せた子です。
ちなみに文集の僕のページには、奈良のお寺だかの絵が描いてあったと記憶してます。
ばからしくて読み返す気にもなりません。

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2008年3月20日 (木)

ズ23 ズッコケ妖怪大図鑑

Back23 第23巻。91年8月刊です。

中学生が洋楽派と邦楽派に分けられるように、小学生にも妖怪派と幽霊派の別があります。小学生は自分の嗜好を自意識にフィードバックさせることを知らないので、反目しあったりことさらに主張したりはしませんが、両派に大別されるはずです。
僕は幽霊派でした。妖怪は怖くないからです。
日本を代表する妖怪漫画ゲゲゲに顕著ですが、妖怪というのは、キャラが立ちすぎてしまい、背景を想像する余地がないのです。深夜の台所で無心に油を嘗めつづける化け物などは、確かにその姿に業を背負った存在への憐憫と畏懼を感じなくはないですが、多くの妖怪は奥行を拒否したようなキャラの立ちっぷりで押してきます。これでは、怖くなる前にコミカルな雰囲気を醸してしまうのも仕方ありません。

で、この巻です。ともすれば散漫で雑多な記号の跳梁に終始してしまいがちな妖怪モノを、学校図書室の書棚に相応しい水準で成立させるにはどうすればいいのか。その答えの一つがここにあります。最善ではないでしょうが、確実な方法の一つです。
それは、妖怪の種類をうんと少なくするというものです。机上の文具や傘などの生活用品から果ては不動産に至るまで、あらゆる物に目鼻をつけてぴょんぴょん跳びはねさせるようなことをしない。妖怪だらけにしないで、人間だらけの中に少しの妖怪を入れるという方法です。これだけでかなり抑制の効いた、着実なストーリー展開を図ることができるのです。
とはいえ、この巻、抑制しすぎです。
登場する唯一の妖怪が、タヌキなのです。あの、山にいるタヌキです。そのタヌキが化けるのです。化けるタヌキは妖怪でしょうか。『大図鑑』のタイトルに反し一種類だけというのも思い切ったものですが、その一種類がタヌキというのも大胆なものです。ポンポコのタヌキです。少しも怖くありません。

お化けタヌキが出るのは、ミドリ団地のいちばん古い棟です。取り壊し計画に反対する老いた住人たちの工作が疑われたりしますが、実際にお化けタヌキは存在し、団地の人々を脅かします。古くからその土地にいわくのあるタヌキです。そこで三人組が事態の沈静化に乗り出します。タヌキが暴れる原因を解明し、再び鎮めるわけです。そういう筋のお話です。

しかし怖くない。どうにも迫力がないのです。
よく怪談を披露し合う席で「でも、いちばん怖いのは生きてる人間なんだよね…」と言う人がいます。また、そういうことを目を伏せながらボソッと呟けるのが大人の条件なのですが、つまり誰にとってもいちばん怖いのは何らかの「念」なのです。嫉妬怨恨狂気はじめドロドロしたダークな心です。
狐狸の類も古来より情の深い生き物とされてきたのですが、舞台が団地ではいけません。漱石『夢十夜』の主人公が子供を背負って歩くような野原、見渡す限りの叢と小さな鳥居しかないような場所ならアニミズム的心象も沸き立つというものですが、コンクリートの建物の中では情念ではなくポンポコ性しか浮かんできません。

というわけで、残念な巻でした。
いっそのこと、ハカセが妖怪についてもっと探求していく話の方がよかったと思います。
ご存知の人も多いでしょうが、最近、国民的妖怪アニメの新編が深夜に放送されています。もはや「ゲゲゲってのは子供用にサビ抜きにした話なんで、本来は『墓場のキタロー』っていうのがオリジナルなの。もっとおどろおどろしい話なわけ」というウンチクが周知のものとなってしまいました。
これに代わる新しい妖怪ウンチクを提供していただきたかった。ハカセと助手二人なら解明できる謎もあったでしょうに。
例えば。
「全室フローリングのマンションにも座敷ワラシは定住しうるや否や」。
どうでしょう。
もうズッコケは完結しましたから、どなたか子供の自由研究にでも勧めてあげてください。

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2008年2月29日 (金)

ズ22 ズッコケTV本番中

Back22 第22巻。90年12月刊です。
オムニバス形式の第一巻で、モーちゃんがテレビ出演する話があり、この焼き直しかと思いましたが、そうではなく、学校内のお話でした。

学校というのは、浮世から隔絶し、ほとんど変化のないところとしたものですが、それでも十年に一度くらい、抗いきれず新しいテクノロジーを受け入れてしまうことがあります。
数年前にはおそらくパソコンだのITだのの侵食を迎えたのでしょう。たいてい、普段はめだたないムサ苦しい独身男の教師が急にハリキったりするものです。新設備のフェティッシュな輝きに気圧される俗民と、周縁から選ばれた巫覡といった構図です。

で、この巻は、IT化のひとつ前の波、ビデオカメラをめぐるお話です。全国の小学校にビデオカメラが登場しはじめたのはいつ頃なんでしょう。僕の小学校では、僕が五年生のとき、1983年でした。ほとんどの家庭にはビデオ再生機すらない時代でしたから、かなり珍しく、業務用に近い趣きのものでした。期待に反し、校長先生の話はテレビ中継スタイルに変わり朝礼は教室で、とはなりませんでしたが、そんな夢を見させる、可能性の測りしれない機械としてやってきたのです。
その後の二度の運動会とも、「記録係」の僕は、そのカメラをいじりながら屋上でダラダラとすごすことができました。整列がどうの手足をそろえた行進だのと喧しく言われる運動会を、終日屋上から見下ろしていられたわけです。担任の先生も何も言いません。先端技術のご威光のおかげです。

このように、畏怖をもって遇される新技術は、それを扱う人間をなにか特権的な気にさせるもので、いきおい、その人を鼻持ちならない、イヤな奴に変えていきます。
お話は、そういうイヤな連中の吹き溜まり放送委員の連中が、新人委員のモーちゃんに威張りたおすところから始まります。
花山第二小学校の放送委員は、音楽や連絡事項を放送するだけでなく、テレビ番組も制作します。放送室には、ちゃんと調整室とスタジオがあり、照明ほか各種機材も完備されています。そんなところに加わることになった、アナウンサー志望の五年生女子とモーちゃん。特に、普通の子よりものんびりなモーちゃんですから、ベテラン委員の小姑根性をこれでもかと刺激するわけです。「ディレクター」だのの横文字と罵詈が交錯する撮影現場でまごつくモーちゃん、いと哀れ。
ここでハカセとハチベエが登場します。不憫なモーちゃんのために、ハカセの家のビデオカメラを使って、撮影技術の特訓をすることになるのです。が、そのまま特訓だけではおさまらず、なんと、三人でオリジナル番組を制作することになってしまいます。放送委員の尊大さに腹をたてたハチベエが、連中をアッと言わせる傑作を作ると言い出したのです。ドキュメンタリーです。花山町を震撼させている連続放火事件を追い、犯人の謎に迫る、社会派作品です。
ここで、巻の半ば。ドキュメンタリーは無事完成するのか、生意気なベテラン委員の態度は軟化するのか、そして放火犯を見つけることはできるのか、と、一通りの主題が立ち上がったわけですが、話が展開しはじめてすぐに一転してしまいます。
なんとモーちゃんが激怒するのです。22巻までではじめてです。ハチベエ相手にブチキレです。しかも理由は女のことなのです。あの気の優しい男が、女の子をめぐって親友と反目するのです。意外。
もう、ドキュメンタリーも凶悪犯もとんでしまい、読者の関心はモーちゃんの御機嫌に集中していまいます。しかし、アングリーモー、いっこうに収まりません。カリカリぶちぶちメソメソ……。
で、お話じだいが、とんでしまうのです。作品完成も犯人逮捕も、さらっと触れられるだけです。なんの幕引きにもなりません。
さらには、モーちゃん、最後まで仲直りしないのです。当事者である女の子に宥められ、仲直りを促されただけで、終わってしまいます。次巻まで続くことはないとは思いますが、モーちゃんらしさが戻らないままでした。

……どういうことなんでしょう。
おそらく、夏休み読書感想文的には、「テクノロジーや新奇な機械にかまけてると友情がおざなりになってしまうよ。いちばん大事なものは何なのか考えよう」的なメッセージを読み取ってしまうんでしょうが、おそらくぜんぜん違います。
「ふだん大人しい奴を怒らせるとたいへんだぞ。調子にのるなよ」の方が妥当でしょう。
どの学校にもいたはずです。極端に温和で小心を絵に描いたような先生。そういう先生の背後には、「昔、なにげないことで急に怒り出してある生徒を半殺しにしたことがある」伝説がまことしやかに囁かれたりしますが、この類の伝承を躍起するような話というわけです。柔和な微笑みの奥にある怒りのマグマ。これもまたファンタジーなのです。

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2008年2月 8日 (金)

ズ21 ズッコケ山岳救助隊

Back21

第21巻。90年8月刊です。
ついに90年代に入りました。
およそズッコケに似つかわしくない、ついこのあいだの、90年代です。この頃にはもう、桜間はっちゃく長太郎も姿を消していたはずですが、ズッコケはまだ21巻目。折り返してもいないのです。
そもそも児童書というのは、読者の方がかってに大人になっていき、短いスパンで入れ替わるわけで、傑作を含め20巻もあれば永久にサイクルしていきそうなもんですが、それはそれ、90年代の子は90年代らしい雰囲気を欲しがるんでしょう。僕は、小学生がすごす環境として80年代前半よりも素晴らしい時代はないと思っていますが、さすがズッコケの作者はそんな偏屈な了見を持ってないようです。
ということで、これまでの巻にはない変化をそこかしこに感じる巻でした。

タイトルで分かる通り、山登りのお話です。町内の子供会で、中国山脈に夏登山に行くのです。
「救助隊」とタイトルにありますが、当の主人公、三人組が霧の中で遭難してしまいます。夏なので凍える心配はないのですが、雨を避けたり熊を警戒しながら、見失った大人たちを捜しはじめます。ハカセの知恵とハチベエの威勢とモーちゃんの楽天主義が出揃い、ズッコケらしくなり、ここで全頁の半ば。「おいおい、救助隊というのは引率の大人の方のことなの?これなら三人組は“救助され隊”ですやん」と、読者は思うはずです。
しかし、ここでお話は急転回します。なんと雨あがり、夜の山奥で、誘拐事件に遭遇します。町で誘拐された子が囚われている、犯人のアジトを発見してしまうのです。幸い犯人はいません。三人組はさっそく鎖でつながれた子を救助します。戻ってきた犯人を迎え討つべく、夜通し見張ったりします。しかし犯人は現れず、朝、明るくなった山道を行き、町まで逃げることにします。……大きな事件の発生とテンポのよい展開のなか、やはり読者はここで立ちどまるはずです。「救助は救助でもこれは山岳救助じゃなくて攫われっ子救助ですやん」と。
……また急転回です。山岳救助しました。山中でガケ崩れで埋まった車を見つけ、中にいる手負いの誘拐犯を救助するのです。
つまり、悪い奴だけど困っててかわいそうだから助けちゃう、優しい子供たちのお話でした。

で、このお話のどこが90年代らしく、「初期ズッコケ」との違いを感じるかということですが、いちばんのポイントは「女子」です。
遭難したのは、三人だけではなく、女の子が一人混じっていたのです。はぐれる前からいちばん元気で健脚だったのも、ハチベエではなくこの子でした。それも、ゴリっとしたところのない、普通のかわいい同級生です。
もう男の子三人だけでは物語が成立しないかのようです。ちょうどこの巻の刊行の頃から、テレビに女デカが登場するようになった気がします。七曲署や最前線の特命捜査課や大門軍団には拳銃バンバンの美人刑事なんていませんでした。
さらにもう一つ。誘拐された子も女子でした。囚われのかよわい被害者という意味なら女の子でも不自然ではないのですが、救助する相手としてはどうでしょう。初期ズッコケなら、この子は歳下の男の子だったはずです。つまり、小学生が自己投影するかもしれない六年生像として、「歳下に強いところを見せる頼もしいお兄さん」よりも「女の子を助ける勇敢な男子」の方にシフトしていったということです。

どんどん80年代が遠くなっていきます。
そのうち「♪80年代を知らずに~僕らは育った~」とかいう唄が流行りそうな気すらします。独創性に自信がないミュージシャン志望の平成生まれさん、「ジロー杉田」で検索してみてはいかがでしょう。

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