ズ30 ズッコケ三人組と学校の怪談
第30巻。94年12月刊です。
サザエさんの最終回の話をご存知ですか?「学校の怪談」ものブームの五年くらい前に広まったうわさです。当時、いろんな「うわさ話」が流行し、僕はたいへん興奮したものです。磯野カツオ氏が回遊魚になる話や新元号ネタくらいは誰でも一度は耳にしたはずです。インターネットがない時代で、「多く語られているけどマスにはのらない話」がまだ神秘的でありえたのです。個々のうわさ話だけでなく、フォークロアだの都市の常民だのといった語がとても刺激的でした。女子高生の朝シャンは現代の禊の儀式であるなんて話に驚き、マーケティング戦略には民俗的心象への理解が不可欠だという記事を読めばそんなもんかと感心していました。
そんな時代のあと数年して勃興したのが「学校の怪談」ブームなのですが、僕にはずいぶんと雑に見えました。子供相手とはいえいくらなんでも大味すぎるだろう、と。深夜の学校でピアノが鳴り音楽家の目がギョロリと動き標本ガイコツが踊るくらいことは、ずっと昔からあったことで、それ自体は他愛もないことなのです。大切なのは語られ方なのに、「商品」の前面化のせいで、「虚実のあわいに託される古くもありアクチュアルでもある集合的無意識」というような味わいがほとんどないように感じていたのです。
といっても、渋谷の映画館まで観に行ったんですが。
で、この巻です。おそらくブームの最中の刊行です。ズッコケまであんなブームにのらなくてもよかったんじゃないかというのが最初の印象でした。
ところがどっこい、さすがズッコケ。ただの便乗ではありませんでした。この巻は、巷間あふれる「学校の怪談」ものを挑発しています。これくらいヒネリを入れたらどうか、と言っているのです。5巻のところで書いたことですが、本来オカルト世界というのはコマーシャリズムから人を解放する点でも有用なのです。それでも尚「商品」としてその世界に参入しようとするなら、この程度の慎みと水準は備えておくべきなのだ、と、児童書の王として範を垂れているかのようです。現実の子供たちのうわさ話に深みを与えていくヒネリがなくてどうする、というわけです。
どのようなヒネリかというと、べつにトイレに出没するのが薄倖少女ハナコではなく禿男の化け物ということだけではありません。物語の説話構造からしてヒネられています。
学校の怪談ものの最も単純な基本パターンは、誰かがうわさを聞いてみんなに話す→みんな怖がったり否定したり→確かめるべく探検→本当にお化けが出る→ギャーと驚く→ピンチ→なんとか生還めでたし、というもので、子供をなめてる手合いによるこのパターン通りの商品がいくらもあったはずです。お化けの種類や探検メンバーの人数と男女比をいじればバリエーションをとれるとでも考えていたのでしょう。こんなものでは刹那的にビビらせることはできても、実際に独自の怪談を紡いでいこうという気にはさせられません。
この巻は、この安易なパターンに挑んでいるわけです。まるで実験小説の入門をも意図されているかのようです。といっても、極端に実験的なことはしません。ありきたりな構造を避けるといっても、シュールレアリスムやヌーヴォーなんとかのように凝りすぎると、子供にとってうわさ話を語りだす叩き台にも手本にもならないのです。
採られているヒネリは「二重化」です。これによって固定的だった構造が流動化され、生産的な土台になるのです。
お話は、花山第二小学校には「学校の七不思議」がないと嘆くハチベエに、「だったら自分たちで作ってしまおう」とハカセが提案するところから始まります。ないなら作ってそっと流布させればいいというわけです。いずれにしろ幽霊なんかでっちあげなんだからと、ハカセは言います。そうして、三人組にうわさ好きな女の子らも入れた十人で七不思議制定委員会が発足し、それぞれがアイデアを出し合って八つの不思議ができあがります。つまり、このお話では、怪談やうわさは予めあるものではなく、主人公らによって捏造されるものなのです。古来よりどの国でも起源の隠蔽が神話の始まりであることを考えれば、このあからさまな起源の提示は、読者を拍子抜けさせてしまいかねません。
ここで一つ目の二重化が導入されます。なんと、作られた不思議を風にのせようとする頃、いきなり本当に捏造話通りの不思議に遭遇してしまう子が出てきたのです。一年の男子がトイレで禿じいさんの怪物を、六年の女子が校舎の階段をボールのように落ちてくる人の首を目撃してしまうのです。どちらも、十人のメンバーが思いつきで作った八不思議の通りです。そして、ハチベエら自身も、給食が一人分消えてしまうという怪現象を体験してしまいます。これは、モーちゃんが考案した給食室のお化けそのままです。
つまりここで、「花山第二小の八不思議」は、意図的にでっちあげられた非神話的虚構であると同時に、実際に誰かが体験した事実でもあるということになるのです。これが二重化です。
さらにもう一つ。作られて間もない八不思議とまったく同じうわさが、何十年も前の花山第二小学校でも語られていたことが、ハチベエの父である八百屋店主の証言によって判明するのです。現代の法螺であると同時に、歴史的な口承伝説でもある…これもまた「偶然」ではなく「二重化」の主題です。
ちょっと複雑ですが、この複雑さがそのまま、潜在的なうわさの語り手でもある小学生読者に対し、うわさ話の肥沃な土壌についてのヒントを示すことにもなっているのです。ありきたりのお話では、ちょっと勘のいい子なら目先の多様さに惑わされず、すぐに構造的単調さに気づき飽きてしまいます。でも、そういう子が能力を発揮しないと、その学校ではろくなうわさが語られないのです。
つまりこの巻は、全国の学校のうわさ畑に撒かれる肥料となるものなのです。それは、珍しくもあり、同時に「学校の怪談」本としてはごく正当な役割でもあります。すごいなズッコケ。
ネタバレはしませんが、複雑さの一方で、映画ばりのアクションシーンもきっちり盛り込む余裕も見せています。まさにズッコケの底力を見た思いのする一冊でした。
最後に。
欲をいえば、あとひとつ、ズッコケ作者にしかできないことが試されているとよかった。
それは、ズッコケ自体がひとつのうわさの主題たろうとする試みです。例えば、図書係の子がズッコケを棚に片付けるときに、「ズッコケつまんない」とつぶやくと、その夜、月明かりに照らされた無人の図書室で、いきおいよく宙に舞うズッコケ23巻と24巻が、ぶつかり合って戦争を始めるというものです。「そういう秘密の力を文章の中に呪文のように埋め込んでおいた」と一言書いてあればよかったのです。
後は、全国の子が尾ヒレをつけていくはずです。
翌朝二冊の本がぼろぼろになって床に弊れているのを教頭先生が発見したらしい、とか。
破れたページにやさしく手を添えるようにして、両巻の間に『よい子の伝記ナイチンゲール』がいっしょにあったとか。
学校の怪談とは、本来そういうものなんです。
| 固定リンク


コメント