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2008年12月29日 (月)

ズ32 ズッコケ愛の動物記

Back32第32巻。95年12月刊です。

たくさんの動物を飼うお話。
佳作です。
昔こういう本を読んだことがあったなあ、と懐かしくなりました。これまでのズッコケにはなかったテイストですが、児童書におけるウェルメイドの典型の一つです。

お話は、入学式の日の午後、新六年生のモーちゃんが捨て犬を拾うをところから始まります。かわいい子犬です。でも、モーちゃんの家は団地の市営アパートなので飼うことができません。近所や学校の子にも飼ってくれる人がおらず、結局ハチベエの提案で、駅裏の廃工場で飼うことになります。命名ムック。三人組が分担して、登下校時にエサをやることにしたのです。しばらくしてムックは引き取り先が見つかってもらわれていきますが、入れ替わるようにして廃工場にいろんな動物が持ち寄られてきます。ニワトリ1、ウサギ2、リスザル1、アオダイショウ1。クラスメイトの家や学校で持て余された動物たちです。持ち寄った子らも飼育に加わります。スペースも廃材も豊富にあるので、小屋や囲いはたくさん作ることができます。そこで「動物園計画」がハチベエの頭に浮かぶようになります。一人百円、全児童で七万円也。もちろん実現しません。ハムスター、ジュウシマツ、カメ、ヤモリと、動物が増えてきたところで、工場跡地の売却が決まり追い出されて終わり。動物たちは花山町の野山や各家庭にかえされておしまいおしまい。

で、どこがウェルメイドなテイストかというと、概して「静か」なのです。
この巻ではとくに事件も起こりません。明かされるべき謎とか発見されるべき宝とか解決されるべき争いといった、物語の持続を担うようなものがないのです。それだけではありません。ストーリーのなだらかさに照応するように、登場する子供たちも静かなのです。口数も少なく、また話すときも穏やかなやりとりばかりです。この「静かな子供たち」の姿が、たいへん懐かしく思えました。それはべつに、昔の、派手な展開を避けた児童書らしさを久しぶりに見たからだけではありません。大人よりも子供の方がしばしば静かなのだという事実を思い出して懐かしかったのです。

子供がギャーギャーうるさいのは、教室とか新幹線の中とか、空間や風景が限られた場所に於いてだけです。誰でも経験があるはずですが、本来子供は、四六時中周囲に心を奪われ言葉を失っているものです。
この巻では、ほとんどの場面が、子供たちが互いに向かい合わず、輪になって中心を眺めているという構図になっています。中心にあるのは、統御しきれない物言わぬ動物たちです。この構図が、子供の頃によくあった、穏やかさと充実が並存する時間を想起させてくれます。みんなと一緒にいるのに、互いではなく共に別の何かに夢中になってるような、決して一人ではないと確信しつつも一緒にいる子にはまったく配慮がない、こんなふうだったなあと微笑ましくなりました。

そして、非生産的な言辞やストレスというのは、相手の顔しか見てはいけない場で発生するのだという事実にも、同時に思いあたったのです。
相手の顔ではない何かに目を奪われ言葉が追いつかない状態を共有するような会話。こういうのはもう大人には経験しにくいものです。ストレスだらけもむべなるかな。
相手を見ないで話すといっても、ダラっとテレビを観ながら「この女優って離婚したんだよね」などと話すのは違います。怠惰を共有しても忘我の境は遠いままです。
目は奪われたまま、適当な言葉は出てこず、間に合わせの片言と生唾を飲む音だけが交わされるような場。悪友の家で成人ビデオを何人かで鑑賞したのが最後、という人が多いと思います。大人になっても経験してる人なんて、敵国の報道番組を見ている国家元首と補佐官、くらいしかイメージできません。
そう考えてくると、巷間よくあるような、思わせぶりな空虚が「癒し」を自称するのは嘘ですね。「相手の顔」から人を解放するのは、複数の意識を同時に捕らえて放さない過剰な何かしかないはずです。また、対人関係がストレスの元だとしても、お人形を相手に会話したり性交渉をしたりする人がいるそうですが、それも違います。そういうのは仮構された孤独か余裕ある擬人化によるのであって、たいした充実は得られないはずです。

一人ではなく、だけど互いではない何かに心を奪われその濃密な境地を共有する、そういう機会にかつて恵まれていたことを、動物を囲むハチベエらを通じて思い出し、その貴重さを再認しました。ストレスの元にならない「ウザくない他人」というのは、薄味の人格ではなく、共に意識をさらわれるような濃い環境によって成立するものだと、今さら思い出したわけです。
……とまあ、世知辛いこの年の瀬にこうやってグダグダ考えるくらいしか大人にはできないもんだろうかと、グダグダしてしまいました。で、大人にも何か、他の大人と共に思いがけず存在を賭けてしまうような、過剰な予測不可能性といったものはないもんだろうかと考えていたのですが、ありました。子供です。

来年も世界中でいい子がたくさん誕生しますように。

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2008年12月12日 (金)

ズ31 ズッコケ発明狂時代

Back31 第31巻。95年7月刊です。
「発明」です。「ハカセ」が出てくるシリーズなのに、これまでなかったことが不思議なテーマです。
子供の夢の定番といってもいいでしょう。発明に必要なのは独創性だけではありません。発明が新しい時代をつくるのだとすれば、先行世代とは別の時間を生きたいという自立心も大切なのです。まさに子供にぴったり。熱いお話にちがいありません。

もちろん主役はハカセだと誰でもわかると思います。おっちょこちょい(ハチベエ)とのろま(モーちゃん)は、コミカルな助手の役がお似合いです。論理的で堅実なハカセのことなので、発明されるのは、奇を衒わない、日常生活に有用な品でしょう。ハカセなら必ず発明を成就するに違いありません。豊富な読書と思索によって培われた粘り強さがついに実を結ぶわけです。派手さはなくとも、花よりも実といった感の利器です。ハカセの偉大さに気づかぬままだった、花山第二小の凡俗な諸子が受ける恩恵も大。優れた技術者や真の芸術家のイメージ通り、世間的な名声には頓着しないハカセでしょうが、天才発明家の誕生を周囲が放っておくはずがありません。お調子者のハチベエの宣伝もあって、ハカセの発明品は賞賛をもって迎えられるはずです。
読者にも、子供のアイデアと創意とが、世界の風景を変えうるということが示されます。
ラストシーン。研究室の机からふと上げられたハカセの顔には満足の微笑が浮かび、その目の先には皆と同じ、新しく拓かれた地平が写っていることでしょう。

……とまあ、読む前からこの程度の流れが予想できてしまうタイトルと表紙だったのですが、なんとまったくのハズレでした。
始まりは生来の好奇心でも創意でもありません。発明のモチベーションは金(マネー)です。研究の秘訣ではなく、特許取得やロイヤリティ成金への道が語られます。
ハカセの目標は「永久機関」の完成です。自分と同じ小学生や団地住まいの家族の生活とはまったくリンクしません。山師そのもの。
残りの二人は、助手ではなく独立した発明家です。しかもこの二人の方が発明を完成させてしまいます。といっても、ラジオ付き雨傘と目覚まし時計付き枕……特許どころかかろうじて夏休みの工作として通用するレベル。
ところが、三人の発明とは別に、時代を画する驚異の新製品が誕生します。なんと何日か先の未来が映るテレビです。子供らしい奇抜なアイデアによるものではありません。壊れかけたテレビに偶然カミナリが落ちた結果です。
この未来テレビですが、アイドル歌手の結婚を誰よりも早く知って得意になること以外に、ハチベエらはもうひとつの有効利用を思いつきます。…またもや金(カネ)です。現実よりも先に、未来の競馬中継を観て結果を知ろうというわけです。
ラストシーン。子供たちの輝く瞳の先にあるのは、秋のGⅠ菊花賞の出走です。……

このように、まったく予想外の展開を見せるこの巻ですが、このハズれ方はなんなのでしょう。きっと何か大切な意味、隠された作者の意図があるはずだと考える読者も多いでしょう。
「発明などという山っ気のあることではなく夏休みの研究は教科に準じたことをやれ」というメッセージでしょうか。あるいは、「モノの仕組み」が集積回路の中に閉ざされてしまった現代における発明の不可能性が主題なのだと思いつく人もいるでしょう。
どちらも違います。

隠された意図――それは、不正読書感想文への罠です。
夏休みに一冊の本も読まずに宿題の読書感想文を書き飛ばして提出するだめな子が世の中にはゴマンといます。こういう子をひっかけるのが真の意図なのです。「僕もハカセのようにいろいろ発明してみんなを喜ばせたいと思いました…」こんなことを書いてきた子の不正を一目で判別できるようになっているのです。
暴かれるのは不正だけではありません。悪意や怠惰に見合わない無防備さ、「楽がしたけりゃ知恵を出せ。面倒が嫌なら頭を使え」という真理すら心得ていない子供の実情です。
こんな罠にかかるような子では将来が心配です。
まじめな読書習慣か、それが嫌なら単純な罠にはかからない策略を身につけるべきなのです。

実作者らしい手厳しい罠でしたが、僕からは有用なアドバイスを。今の父親よりも上の世代から繰り返されてきた伝統的手法です。代々伝えられてきたのではなく、常に一定数の子が独自に思いつき試みられてきた読書感想文速成術です。
まず、どんなに面倒でも、その十ページ余りだけは読んでおく必要があります。中学も含めた数年間を通じてこの十数ページを一度読むだけでいいのです。
で、「メロスの美しい心に感動しました。友情ってすばらしいと思いました」…毎年こう書いときゃいいんです。何度目かの夏にはもう自動筆記状態。「今年もメロスでチャッチャと済ます」ってなもんです。
ご存知でしたか?桜桃の人は、思春期の自意識を刺激するだけではなく、怠け者の子に格好の紋切型を供し続けているのです。どの文学書にも言及されていません。これもまた、ダメな子たちのささやかな「発明」なのです。

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