« 2009年5月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月24日 (金)

ズ38 ズッコケ怪盗Xの再挑戦

Back38 第38巻。98年12月刊です。
「再挑戦」に「リターンマッチ」とカナが振ってあります。二度目の登場「怪盗X」は「かいとうえっくす」と読みます。
ひとつ前の第37巻のところで、「次巻では大震災はなかったことになっているはず」と書きましたが、地震どころか、舞台は第26巻直後まで戻ります。ミドリ市に現れた怪盗Xの一味が、三人組に犯行を阻止され逃走した事件の、その一ヶ月ほど後からお話が始まるのです。
つまり第26巻の続編です。「怪盗Xモノ」の第二弾というわけです。そして、ズッコケシリーズのタイトル一覧を見ると、怪盗Xモノは三部作になっていることがわかります。

第一弾(第26巻)のところで書いたように、怪盗Xは乱歩二十面相に類似した紳士ですが、何人かを従え組織的に窃盗を働いています。また、90年代も暮れ方の本ですから、怪盗VS小学生といっても、少年探偵団が自転車でパトロールをしたり腕時計型トランシーバーを駆使するわけではありません。今回狙われるのは、デパートで開催される「世界の宝石展」です。こういうあたりも、前回の「九条家に伝わる国宝級の茶器」に比べ乱歩風味から離れています。
今回の怪盗Xは、宝石だけでなく三人組への意趣返しを狙っています。彼らの家に犯行予告の電話をかけるなど、すでに怪盗Xは三人組をライバルとして見ているのです。再度犯行を阻止すべく知恵を絞る三人組、子供に出し抜かれるわけにはいかない県警、無事を祈り続けるデパート社長。世界に二つとない宝石に何かあれば国際問題に発展するとあって政府筋まで注視するなか、ついに怪盗Xの計画が実行に移され……というお話です。

実際に読めば誰でもすぐに気づくことですが、この怪盗Xシリーズは、ズッコケシリーズにいくつかある探偵モノや事件モノとは似ているようで全く趣きが違います。
三人組は探偵でありながら、隠されている手がかりや犯人を探ることが主軸になりません。予め知られた敵との競い合い、知恵くらべなのです。探るまでもなく最初から対象が同定されており、向こうもこちらのことを意識しています。この構造が、同じく犯罪をめぐるお話でありながらミステリー的世界とは一線を画しているのです。ミステリーよりずっと軽快で活劇的です。そして、こういうお話は、敵が初対面ではなく定期的に登場する固定したキャラになるほど味が出てきます。強拳殴打でふっ飛ばされるも何度も対決を繰り返す餡パンとバイ菌のようなものです。
ズッコケは長いシリーズですから、こういう、何巻おきかで登場する定番キャラが活躍できる余地がたくさんあったはずです。もっと早くに出てきてもよかった。定期的に登場する神出鬼没キャラとしては「怪盗」はうってつけです。「忘れたころに現れて宅和先生に憑依する花山町の浮遊霊」というのも僕は好きですが、怪盗よりも読者を限ってしまうことでしょう。

ということで、もう次回が最終決着編になるのがもったいないようなXでした。
で、このXの正体について、ハカセの推理が披露される場面があります。どうも最終決着編への伏線になりそうな、彩りの深まりを予言するような発言です。曰く、Xら一味は倒産した会社の同僚で結成されたグループなのではないか、とのこと。
これはある意味、タイムリー。ただの活劇的読み物にとどまらず、社会派的哀情まで誘いそうな雰囲気です。いよいよ楽しみになってきました。
こうして読者は最終決着編を待つことになるのです。純文学的な煽り文句で言えば、不況時代の寓話の予感とともに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 1日 (水)

ズ37 ズッコケ脅威の大震災

Back37 第37巻。98年7月刊です。
地震のお話です。大地震です。花山町が壊滅的被害。
前々回に、ズッコケはシリーズを通して舞台設定が変化せず、舞台の変化は各巻のうちで元通りに納まると書きましたが、その法則が適用されません。最後まで、団地も八谷商店も再建されないのです。
おそらくこの巻は「番外編」のようなものです。次巻には地震被害などなかったことになってるはずです。

ストーリーらしいストーリーもありません。井戸の枯渇やボラの大発生といった前兆があり、数日後に大地震発生、三人組はじめ町内の人たちが避難所になった小学校で暮らし始める……というものです。非常時にあって助け合う家族の姿や友情の美しさなど、それらしい見所はあるにはあるのですが、なかなかズッコケを読んでいる気になりません。ちょうど防災パンフレットを見ているような気分になりました。

96年に出た34巻の宗教ネタがタイムリーだったのに比べ、この巻はそうではありません。宗教ネタが盛りあがったのと同じ年に全国的に知られた大震災がありましたが、すでに三年以上経っています。では、ここにきてなぜ地震なのでしょう。ストーリーの起伏より震災の細部描写に力点が置かれた意図は。……すぐに思い浮かぶのは、「地震被害の実態を、より正確かつ具体的に実感させるため」というものです。子供の世界にはよくある意図で、僕が小中学生のころは、この「地震」が「戦争」になったものがいくつかありました。大切なことなので当事者になったつもりでよーく想像してみましょう、というやつです。
しかし、もし本当にこういう意図があったとしても、僕にはほとんど効きませんでした。それは、僕が昔からそういう啓蒙的善意が苦手だったからだけではなく、地震について子供よりいくらか多くのことを知っており、ズッコケを通して地震を知る必要がない大人だからです。逆に、95年の大震災のことすら記憶の薄い子供たちにとっては、新鮮な情報がたくさん詰まった本ということになったのでしょう。
さらに、「戦争」とは違い「地震」のお話は、子供たちにとって、心のシミュレーション、現実に発生した場合のパニックを予防する効果も持つはずです。この巻が刊行された98年以降も、国内だけでも何度か大きな地震が発生しました。ある日突然家が倒壊し体育館や公民館に泊まることになったその夜、簡易布団の中で目をつむったその瞬間に、どんなことがその子の心に浮かんだか。おそらく、この巻を読んでいた子とそうでない子では、何かが違ったことでしょう。ああハチベエらもこんな感じだったなあと想起することが、まったく無益ということはなかったはずです。震災といえばジーパンキャスターの慇懃な被災者インタビューが浮かんでくる大人よりずっと平安が望めます。

というわけで、子供にとっては有意義たりうるものの、あくまで番外編的位置づけの巻でした。
大人には向かない、というより、大人が読むにはある種の想像力が要求される巻ともいえます。つまり、この巻のお話と、それが子供にとって非常事態の事前シミュレーションとして機能するさまを合わせて想像しながら、この巻の主題を自分に合ったものに変え、自分なりのパニック予防譚を頭の中で構築しておくという読み方です。ここまでしてやっと、大人の自分には既知の情報ばかりだった『ズッコケ脅威の大震災』が生きてくるのです。『ズッコケ大失業時代』とか『ズッコケ持株大暴落』とか『ズッコケ養育費攻防戦』とか…そういうのは自分の頭で描くしかないのです。大人とはそういうものなのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年8月 »